はるかな昔には、わたしもいわゆる論壇時評なるものを読んでいたものだが、いま手にしたのは高橋源一郎が、論壇をぶった切るものであった。 担当は、あの2011年からで、ニホンの抱えていた矛盾がいちどきにあらわになった瞬間であった。 未曾有の天災
実家の小学校の横にある文房具店兼雑貨屋。 長年、見落としていたが、この看板は貴重で、時代の証言者かも。 塩なんて今ではどこでも買えるが、専売制というか、売ってるところが少なかった時代を反映した看板。 おまけに、たばこ。 さらには、火の見や
メキシコ在住のニホン人のお友だちが、避難所に移った子どもたちを慰めようとして、手製の人形をプレゼント。どんなに慰められることであろうか。
しばらく前に植物の不思議なちからについての中公新書を読み、おおいに啓発された。植物と人間の接点は耕作にあるが、薬草という部分も見逃せない。18世紀初頭のフランス圏の末端にての異端の若い薬草碩学の話をいま読んでいて、じつに刺戟的。植物学は、
メキシコの海軍に属する救助犬フリーダ、いくつかの地震で瓦礫のしたからすでに50人以上を救っているという。 用意もすでに準備万端、活躍が期待される。
1985年、朝の七時から授業をしていた。 9月19日、マグニチュード8.0の地震が襲ったとき、わたしは三階の教室にいた。 あまりの揺れに教室から動くことができなく、女の子たちは派手に悲鳴をあげていた。 男の子が咄嗟に、みんなで教室の真ん中
ギンザのソニービルの一階が、ニッサンのスポーツカーのショールームと化していた。 人だかりができているが、大方は中国人であった。 そりゃ、だれだって乗ってみたいとは思うし、トウキョウのそれなりの界隈ではよく眼にすることができるのかもしれない
街道をとばしてふたたびケレタロ州のサン・フアン・デル・リオにおもむく。 今回は、浸水やら地震に振り回されて、料理のほうに頭がまわらなくて、頭は終始ぽかんとしていたはず。 申し訳程度に、都心の教会の写真を撮ったのみ。
かねてから江戸期の文化とメキシコの植民地時代文化のあいだにはアナロジーがありうるとわたしはにらんでいた。 キーワードは、バロック文化。 方向性を絶たれたうえでの文化の興隆は爛熟化せずにはいられず、過剰さでひとびとを圧倒する。 江戸に流行っ
一年たつと銀座がずいぶん変わっていた。 ある日、そんな銀座を歩く。 あたらしい名所(といっていいのかわからないが)ギンザ・シックスとかいうのがあるというので、物見遊山に足を伸ばす。 すると、あのクサマ・ヤヨイのデザインが頭上を覆っているの
この作品の多くの部分は、水上ベッドにて読みしもの。大雨によりベッドの下まで浸水が押し寄せるが、水がひいてくれるまでなすすべもないので、そんなときの慰めにはひたすら本を読みふけるしか能がなかったもの。時間的にも空間的にも、じつにひとひねりが
きわめて微妙な揺れを感じたとき、わたしはクリストファー・プリーストの『スペース・マシン』を、赤ワインをなめながら読んでいた。おそらくそれだけで終わるかもしれないと思った。 しかし、地面がゆっくり、しかし大げさにゆらゆら揺れるのを感じて、酔
ゆうべの浸水から丸一日。 通りからは汚水が消えてはいるものの、家のなかに入り込んだ汚水は行き場がなく、そのまま留まる。 通りの排水系統と家屋の排水系統は、別物らしい。 汚水を搔き出そうとすると、他のところに舞い戻ってくる。 全体的な
浅草にはおいしいものがひしめいている。 といっても、わたしはいなか者であるからして、たいして知ってるわけではない。 まあ、目移りがする。 それに、婦女子にたいしても、原宿に対抗するわけではないのだろうが、あれこれ、華やかだ。 じっさい、見
伊香保温泉は実家からは遠くないのだが、初めて訪れる機会を持った。 わたしが小学だったことは、父が属していた共済組合では親睦会としてよく伊香保へ旅行を組み、芸者さんまであげて呑んで騒いでをやっていたらしい。 当時の職場では、オフィス組と現場
上野駅というと石川啄木を思い起こすだろうか。 いま、わたし的には、室生犀星小ブームということで、関東大震災後の、そして太平洋戦争中の上野駅を考えてしまう。 訛りだったら、成田空港へいけばいいだけのこと(ああ、訛りでなく、外国語か)。 上野
今日は、といっても昨日もおなじであったが、うちのなかの水に困っただけではなくて、道路においてもあちこちで浸水し、交通渋滞が怖ろしかった。 今日も、午前7時前にうちを出たのに、仕事に着いたのは10時40分であった。 都市が水に弱いというのは