有楽町から東京タワーまで歩く。 東京タワーは何十年ぶりか。 父方の祖父に兄といっしょに連れていってもらったが、わたしの腕白ぶりにひどく叱られたのでなにもかもがいやになった(笑)。 むしろわたしたちの世代にとっては、モスラの繭の宿ったところ
隅田川のほとりに松尾芭蕉が「奥の細道」へと旅立つまえの庵あり、いまでは記念公園なり(八月の東京)。 いまでは隅田川下りの名所のひとつかも。 このあたり、一歩路地にはいると、ひと昔前の東京をなんとか思い描き出せそう。 まあ、イマジネーション
スカイツリーもいまではけっこう下町の景色に溶け込んでるかも。 近寄るとけっこう不気味で東京タワーほどのやさしさがないけど(東京タワーも近くだと偉容がすごいけど)。 とにかく、入場料が高いから登らなかったけど、まあ、登るのを待つような忍耐力
このところ引きこもり気味だったので、女ともだちと都心で会うことにする。 人々は行くところがないのか、ひとでごったがえしている。 ソカロでは巨大なクリスマスツリー、それにスケート場、ただし、スケート場は大気が汚染されているというので、休業。
冬休みもまだ一週間たっていない。 最初の遠出のプランは流れ、第二の遠出のプランの実現にやきもきしている。 今週は毎日一時間半走って肉体的にはくたくた。 そして、うちではカルロス・フエンテスの中篇小説集を読み込む日々、自分にプレッシャーをか
カルロス・フエンテスの中篇小説集の第二篇「哀れな女」を昨日読み始めたが、冬休みのおかげで今日、読み終えた。 30年代のメキシコシティで地方からの苦学生を強いられる二人の大学生。 二人は市内のマネキン人形に魅了され、ついには持ち込んでしまう
カルロス・フエンテスの中篇小説集の第一篇。 主人公の米国人と奥さんのスペイン人のあいだには、意識の壁としての文化や宗教の問題あり。 しかし子どもがいないということで、ふたりのあいだの距離にいろいろなものが見えてくる。 そこに隣人のロシア人
今年の仕事は今日でおわり。 例によってダンスパーティーの食事会へと突入。 お酒は、持参なのです。 愉しむときにはがむしゃらに。 まあ、踊るのも、じつは社交のだいじな要素。
タマーヨ美術館で催されているレオン・ゴラブ展を観る。 ヴィエトナム戦争からはじまって米国の中米軍事介入などの現場を粗いタッチで描く作品には力強さを感じさせられるが、そういった政治的メッセージだけには終わらないものを伴っているようにみえる。
さきに読んだドノソの作品「象が死ぬところ」(1996)はチリ在住の教官が米国に移る話で、この「失望」ではネルーダ夫人の死をきっかけに長年の亡命暮らしの末にチリに民衆派の歌手が戻ってくる話。 亡命のすえに故国へ戻ってくるということがいったい
グアダルーペ聖母神の例大祭の前日の今日、せっせと巡礼者が向かう。 今晩は境内とかで野宿同然なのに。 それでも例年にくらべてやや少ないような。 三枚目の写真は衝突、というか接触。 まっ、おへんろさんとかとは、だいぶイメージがちがうけど。La e
あさってのグアダルーペ例大祭をひかえ、巡礼者が増えるが今日はまだ予想したほどではなし。 きょうあたりは、まだかわいいほうだ。 寒さもきびしいし。しかし決戦の明日は?Esta mañana los peregrinos son aún escasos, pero ciertament
毎年恒例の、年に一回の土・日出勤(俳句の季語にでもなれそう)。 でも今日は寒かった。 リセオ時代もやたら寒かったけど。 人付き合いのよくないわたしにとっては、年に一度しかお目にかかれないひともすくなくない。Como del evento anual, la labor
三島由紀夫は1951年、はじめてアメリカ、ヨーロッパ大陸をめぐることができた。26歳でニホンではまだ海外旅行は困難な時代で、つてを辿っての外遊だった。その旅行記は「アポロの杯」といい、先ごろ、わたしはやっと読み終えることができた。結果から
最近のメキシコシティの交通ラッシュはすさまじい。 原因は、大気汚染防止のために実施されてきた通行車両規制が緩和されてより多くの車が通りに出るようになったからだとか。 8年以上を経過した車は、一週間に一度、通りに出ないように法規制されてい
街を歩くのは愉しい。 建物をみるだけでも満足だが、ほんとは人を見たい。 ひとを観察する、自分こそ観察されていることには無頓着に。Es muy gracioso camina por la calle. Los edificios son suficientemente atractivos. Pero, la verdad, quiero fij
家族小説としてみなされる連作小説。 鬱屈さにみちていて、しかも読みにくい文体(その頃は、それでも世間は受け入れていたのだろう)。 家族おのおのの濃密な描写、ときとして果てがないとまで思わせるほど。 思いのみが渦巻きあい、たしかなものはなに
昨日のイトゥルビデ宮殿は現在はメキシコ銀行の文化施設でふるびた展示とかも催される。 カルロス3世にちなんだ調度品とか、ベラスケスのあの絵とか。。。何気なく並んでいたりする。
ハビエル・マリンというメキシコのアーティストは、まだ若い彫像作家であるが、陶器用の年度を用いての、イタリアを彷彿させる人体像の制作で著名。 悶え、身をよじるような肉体表現は、あまりになまなましく、怖ろしくなるほど。 もちろんイタリア・ルネ
メキシコ国立美術館では、近代美術展を開催中。 近代というコンセプトをめぐってヨーロッパとメキシコを比較するというもの。 アナロジー的に影響関係にある作品を並置。 ヨーロッパの作品では、とりわけフランス、リヨン市の美術館の作品が豊富。 最後
ニホンの近代なるものが欧米のものと比べるとやはり付け焼刃的だ、というのは耳にたこができるほど巷にあふれている話だ。 そしてここにきて、ニホンのメディアがとる権力との距離に、唖然とさせられるようなことが増えているので、ニホンの言論人について
この夏、はじめて「江戸東京博物館」を訪れた。 庶民の暮らしが、まるで時代劇のセットのように立ち並んでいるが、いろいろと当時の暮らしの細々としたものが見られ、理解できるのがうれしかった。 たとえば布の切れ端もごみなどにすることなく、写真に出
当地の日刊紙の政治漫画。 アルカエダやビン・ラディンらがそうであったように、「イスラム国」もじつは米国の政策の落とし子だというのを説明。 すべての歪みは、米国の思惑から来るのか、そしてその思惑はていてい石油関係から派生しているように思え
シネテカ・ナシオナルでは、ただ映画を上映するだけではなく、いろいろな文化エベントも主催する。 きょうは、北欧文化フェスティバルの幕開けということで、音楽でみちていた。 このギターのお兄さんなんて、ノルウエーの沖合いの孤島出身なんだそうな。
朝のうち、近所の刑務所のあたりを歩かなければならなかった。 土曜の面会・訪問者は多く、ちょっとした市(いち)でも立っている感じ。 メキシコの刑務所は定員オーバーなうえに、ちょっとした泥棒で未決でずいぶん閉じ込められるのだとか。 悪いやつほ
時代はひたすら悪くなっていくばかりだとむげに言い放ちたくない。 希望は、どこにだって見出せるはずだ。 そんなふうに言ってみたい。 しかしながら、おかしなことが増え続けているのもたしか。 こんなとき、だれかが何かを言わなければならないはず。
カナダの東北部、過酷な自然に向かわないことには生きられない世界。 漁業とか鉱山とかの選択しかありえない。 そこで故郷を抜け出ることが若者の希望となり、著者が投影されている青年も似通った望みを抱く。 故郷を出奔することこそが、ある意味で近代
『しんぼうのすすめ』とかいうのならば巷にあふれていることと思うが、悪あがき、などというネガティヴ・イメージを大手をふるって論じる。 いや、悪あがき、のようなところからしか生き方を始められないひとたちがいる、ということを知るだけでおおいにイ
ニホンの実家、妹の趣味が反映されてこんな感じになる。 いまはだれも住んでいなくて、妹がお花の教室に用いる。 ふたりの妹と話して、外国人のホームステイにも利用すればいいのではないかと思った。 お花と踊りが体験できる。 東京には近くないが、秩
このあいだ読んだ『バカにならない読書術』に、島秀雄のことが出ていた。 島秀雄とは、蒸気機関車(D51)と新幹線の父といわれている。 かれが新幹線をつくろうと思ったとき、時代は高速道路による自動車輸送のときだ、といきまいている声が国鉄のなか