現代の食生活にバナナは欠かせないものとなった。そのバナナはどこから来るのか。ニホンには昔は台湾あたり今はフィリピンとか。ヨーロッパでいうなら各国は自分たちの旧植民地から輸入しているらしい。ロシアなんてどうしているのか。エクアドルからだ(ニホ
本日は坂本龍一の一周忌であるとともにラテンアメリカ文学ブーム最後の巨人バルガス・リョサの八十八歳の誕生日。毀誉褒貶にまみれながらも多作をほこるが、さすがに作家引退を先日、宣言。写真左は元の鞘に収まった夫人とともに。先日はシシリアに繰り出した
政治家のN氏が記者にむかって「ばかやろう」と怒鳴った(小声だったという証言もアリ)という話。ほかの場だったらパワハラとかに該当するのでは。しかし真っ先に思い浮かべるのはかつてのY首相がおなじことを発して国会解散まで至ったという例あり。さて人付
巷ではイースター休暇が拡がる。今日の音楽教室にはいつもの半数以下の人しか来なかった。今日こそしっかりヴァイオリンの音程を習熟しようと心に決めていた。ところがキーボードを扱うおぼさん(担当は自己申告制、というか早い者勝ち)が欠席したので久しぶ
翻訳大賞の最終五作品リストを目にする。五つのうちの二つが実力派のスペイン語の作家であるのが嬉しい。どちらも若手の女性作家。わたしなんてブームの大作家たちに惑わされていて若手には手がまわらないのでエラそうなことは言えないのだが、ポストブームに
0菱はあまり好きではない。さらに武器にかかわってくるために不快感はたかまる。巷では製品のボイコット運動まであるらしい。でもそこでちょっと困るのは0菱鉛筆。品質がよい。ところが知ってる人は知ってると思うが0菱鉛筆は0菱とは無関係。よかった。さ
大統領選挙キャンペーンがたけなわな当地。事実上の女性候補者の一騎打ち。初の女性大統領の誕生。その一人が公約書だかに血判を押した、というのが話題を呼ぶ。それってヤクザのやり方ではないのかな。当地ではマフィアと呼んでもいいのかもしれないが。これ
だいぶ前からバルガス・リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』読む(もちろんスペイン語)。でもなかなか読み終えないのは病的に不健康な内容に辟易してのこと。ペルーの有力実業家が乱交パーティーまがいの場にて写真を撮られ、のちに公表される。ペルー社会
週に一度、区の施設で音楽のクラスも始め、すでに五度目。備品としての楽器はギター、ヴァイオリン、キーボード。なにを血迷ったか、わたしはヴァイオリンを選ぶ(爆)。生まれて初めてヴァイオリンに触れ、音を出した。キーボードあたりなら弾けるものもある
龍安寺のイレーネ・バジェホ。なんというか絵になってる。。。ちなみに神戸市外大でのトークセッションでは「読書行為と翻訳行為のつながりと差異、本を選ぶ自由、概念としての書物の可能性、タイトルに込められた意図などのテーマで参加者との意見交換が行わ
ニホンのスーパーを巡っていると蛸が大部分モーリタニア産になっていることに気づく。昔の火星のように蛸だらけの国なのか?このアフリカの国、1960年にフランスから独立するとニホンから一人の若い水産技師が送られる。それまで水産業なるものがまったく
たまには写真。メキシコシティの地下鉄のホーム。写真の講座や科目なんて取ったことないが、自分なりに写真の美学のようなものを抱えている。そしてこの一枚。日曜日なもので空いている。アグアカテのみのシンプルな広告。ちょうどいい具合にひとが立っている
クマ騒動は繰り返される。例年より早めに冬眠から覚めてくるクマがいるとか。さてクマにあったらどうするか。例の犬の調教グループは保護服をまとった相手に走りながら襲いかかる訓練を犬にほどこす。防犯の意味合いあり。そこで訊いてみた。「クマにあったど
カラマーゾフ再読。ドストエフスキーは長篇も短篇もすべて読んだ。自慢じゃないけど(笑)。といってもじつは時差対策のようなもの。ニホンから帰り着いて夜中に目覚めて眠れないようなときにしこしこ読んだもの。さいわい眠くなったら本を投げ出す。というこ
二三ヶ月休止していたダンソンのラテンダンス講習が新人講師を招いて再開。サルサの基本ステップから始まってノリがいいと思ったのか、あれよあれよという間にアドリブ的ステップになって付いていくのがタイヘン。というかまるっきりカロリー燃焼一択という印
生まれた町には本屋が二軒。その一軒はまもなく廃業。幼くして越した村には本屋はなし。雑誌などを買い求めたいときは電車で隣町まで出向かなくてはならなかった。それでもまさかのように駅前に開業、でもしばらくして閉店。書店への道は遠い。しかし昨今、書
地球の外には何があるか。宇宙には何があるか。活劇とかも? しかし宇宙とは地球の縮図でしかないと思わせることが近年は多い。ロマンはどこへ行ったのやら。地球の大企業の構図が宇宙にまで延伸される。地球外にて食糧を製造するひとたちは下請け的労働者
さらに映画。トイレ掃除中に平山は男の子に出くわす。寂しがっているような男の子と手をつないで、さいわい母親に出くわす。そこで母親が子どもの手を防菌ティッシュで拭くとかで酷い、という声もあがる。しかしここでストーリーの流れがすっかり変じてしまう
知り合いのメキシコ人作家に問われた。ニホンではほくろはどんな意味を持っているのか。ほくろを扱った伝説や文学はあるのか。作品に用いたいらしい。う〜ん、と唸ってしまう。ほくろの意味なんて考えたことない。俗にほくろ占いというのもあるが、どう見ても
まだまだ映画。実家の最寄りの駅もついに無人駅と化した。トイレに入るとずいぶん老いた婆さんがいる。掃除器具を抱えている。無人駅といっても律儀にトイレ清掃は行われている。こっそり見守ってみるとわりと体はしっかり動いている模様。トイレも清潔。でも
まだ映画。トイレの掃除には思い入れがすくなくない。新幹線の上野駅。お客の出入りがはげしいのに、平山におとらず一途にトイレ掃除にはげむおばさんたち。ここで驚かされるのは千代紙などの簡単な折り紙、手芸品が置いてあること。曰く、休みの時間などに皆
ウイーンでもセントラル・パークでもない。メキシコシティ。ニホンの女の子がフルートを奏して生き抜く。やはりびっくり。すみません、写真を撮ろうとしたら横向きになってしまった。ちゃんとお金は置きました。実入りはわるくはないようにみえる。まあ、ほん
まだまだ『Perfect Days』。東京にて樹を思うことは何を意味しているのか。ニホンは森のくに、大江にしろ中上にしろ、はたまた春樹のカフカにしろ森の存在が濃厚。それに比べると東京の樹は箱庭的。あるいは木漏れ日というはかなざ、せつなさといったものを平