やや敷居が高いのか、半年以上もかかる。 べつに与謝野訳にこだわったわけではなく、たいした意味はない。 平安時代ともなると役職等の名称が入り乱れ、やや難儀。 読みも断続的になり、集中心に欠けることも。 情報量も多く、プルーストとおなじく、さ
古今東西の古典文化に触れようとするとき、そのあまりの膨大さ、広範さを前にして、ひとは眼が眩む。もちろん、眩む以上のものが含まれているわけだが。 どこかしらに取っ掛かりが見出せれば、これほどいいことはない。そんな取っ掛かりなるものはえてして
思春期、少年・少女期というものは、こころとからだのバランスの関係があやうくなり、情緒的にも不安定になる。妄想などにも囚われやすくなる。二重人格的な現象もありうる。 たとえば、もうひとりの自分というコンセプト。 イギリスの少ブルジョア家庭に
ロシア革命に先立つメキシコ革命、そのなかで農民闘争でのリーダーたる位置を占めたエミリアノ・サパータ、暗殺されてから一世紀がたつ。このサパータ像は数多く描かれ、国立芸術院にてその回顧展が催されている。さまざまなサパータ像あり。そのなかでゲイ・
一ヶ月ほどまえにニホンの実家に空き巣入る。ふだんはだれも住まず、妹がお花の教室をする程度。だから侵入するには容易だったと思われるが、だれも住んでいないのだから金目のものがあるわけがない。空き巣はやけになって、長年、使ってないコタツの畳まで裏
この著者は複眼的思考に恵まれた言語学者だと思う。 このテーマについては類書が山ほどあるはずで、わたし自身にも言いたいことはたしかにある。 ところが本書は、ニホン人にとって外国とは何か、外国語とは何か、というところから始めている。 つまり、
チェコというくにの、体制に順応しないことにはどうにもならないところで、いったん睨まれてしまうとどういうことになるか。 でも体制に闇雲に逆らったところで、さらに痛い目にあうだけ。 政治うんぬん以前に、ひととして生きていくこと、生きているあい
マーティン・スコセッシの『アイリッシュマン』観る。ザ・ジョーカーのときにも言えたことであるが、凄まじいヴァイオレンスの向こう側に見えてくるものに注目したい。あるいは男のドラマとみなしてしまうこともできるかもしれないが、この男とはあまりにも愚
アルゼンチンはブエノスアイレス、エル・アテネオ書店は世界で一、二を争う美しい本屋である。なんとそこで、在アルゼンチン・メキシコ大使が支払いもせずに書籍を持ち出そうとして捕まる。外交官であるからして特権があり、公けにされたのは事件から半月後。
ある女ともだちは、サンボルスというデパートチェーンにて、ガルシア=マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』すべてを立ち読みしてしまったという。 しかしその上もあるのだということを知る。カルロス・フエンテスの『テラ・ノストラ』を毎日のように
メキシコの地下鉄では、「刑務所から出たんだけど、お金がないから、少しくれないかい」とすごむ、というか、同情をかいたがるひとたちがいる。 そっと写真を撮らせていただいた。 その真偽、つまりほんとに刑務所帰りかはは不明ではあるが、一方でメキシ
年刊日本SF傑作選であり、つまりはSFのアンソロジー。 こんにち、SFの世界はさらに広くなっている模様。 恩田陸が語っているが、いまでは現実の生活もエンターテインメントもみなSFになってしまうらしい。 ただ科学を媒介にしているだけでは物足りない。
名著中の名著という誉れ高し。 でも、ラディカル、つまり漢字というものを本来、生んだ社会の呪術性なるものまで遡って考察しているために、現代人のわれわれにとっては初めは違和感を感じてしまいそう。 しかし昔の世界はおどろおどろしい、禍々しいもの
ニホンの実家に空き巣が入ったことを知る。 妹がお花の教室に使っているだけでだれも住んでいなくて、わたしはそこに泊まるけど、金目のものなんてない。 ちょっとした骨董品あたりかな。 それなりに荒らされている。 でも畳を裏返して、掘りごたつのな
編集、なるものがとても広い意味で捉えられている。 あまりにも当然のことが滔々と語られているので、これだけのことをこう意識化するだけでも、おおきな企てなのかと思う。 意味を組み立てて、人とコミュニケーションできるようにすること。 情報を自分
それなりに生きてくると、ときとしてすべてが分かってしまったような錯覚におちいるときがある。それは、ただしくないのだが、わたしたちはそんな過ちをおかす。それでも、いや、そうではないのだ、という瞬間を持てるようならば幸せであるにちがいない。とい
ニホンのビールは互いに競い合って、うまい。 しかしビールの消費量では中国が世界でトップ。 メジャーなベスト・テンに中国のビールが四つあり。 Tsingtao,Yanjing,Harbin,Snow。 コロナビールといえばメキシコのシンボルのようにみえるが、いまではメ
うちのがっこうの図書室、いくらハロウイーン気分といえども、これはやりすぎではないだろうか。骸骨といっても、これはホンモノではないはず。どちらかといえば、死神に近い。これは、このセクションのメンバーのメンタリティも影響しているのか。
日本語のことはよく知ってます、プロですから、なんてはったりをかますことが得意で、厚顔無恥さでは他人にひけをとらないわたしであるが。 高校の古典科目的教育では、ニホンの古典は嫌いではなかったが、いったいどこまでわかっていたのかおおいに疑問に
ニホンの歴史を貫いているのは、人の間のねちねちとした嫌らしさ、その一方での理解をこえた禍々しさ。このふたつが織り成す味気なさ。 これはあるいはニホンを越えて、より一般的な物言いとしてもいいのかもしれないが、すると締りがつかなくなる。 また
メキシコ人の知り合いがアップしたもの。 ホームレスの住まいと思われるが、きちんとまとまった住居になっているのはりっぱ。 住めば都、とか?
刷り込みとは怖ろしいもの。わたしの場合は高度成長期が身にしみるような少年期を過ごし、すべてが右肩上がりのようなイメージを抱いて生きた。 まだ節約とはいいことだ、とは思い込まされていたものの。 とはいっても、第三次世界大戦とか核戦争にも怯え
前作『すばらしい新世界』とともに連作とみなされ、千四百頁ちかい。 連作とはいってもこのふたつは、それなりにトーンがだいぶ異なっている。 リベラルなエンジニアは、リベラルな家庭にめぐまれ、低開発国援助を風力発電による灌漑という手段で手助けし
戦時中の軍事機密を扱い、そこに軍の利権、私利私欲がからむ。 建前だけのニホンでありながら、それを用いた差別も厳然と存在。 だれもがおなじ方向を向いて歩くように強いられているのに、肝心要なところで背反行為あり。 問題作であり、意欲作である(
メキシコ人の女の人に、タントラのことを訊かれて、ことばでどう説明すればいいのか戸惑う。メキシコにもインド好きのひとがいて、毎年、一度は出かけるひともいる。そんなひとたちはインドでなにを感じるのだろうか。わたしはインドなんて行ったことはないか
いわゆる発展途上国といわれている国は、たいていは水不足のために農業生産が後退し、農村で人口がまかないきれないが故に都市に移動するという例が少なくない。 ひとつの大きな鍵は、灌漑にある。 もし風力発電によって谷間の水をモーターで引き上げ、乾
棋士の話など縁がないものと思い込んでいたものの、ひとつの才能の軌跡を垣間見るのにやぶさかではなかった。 病に押しつぶされかかって生きていて、自らの才能のみに頼り、才能のみならず修練を旨として、鮮烈に生きる。 それはひとつの生き様。 しかし
この小著を理解するために「高畠勲展」を観たことはきわめて有益であった。 1963年というニホン・TVアニメ界のスタートに先立って、アニメ映画として「白蛇伝」および「安寿と厨子王丸」が公開されTVでも放映されるに至った。 そのどちらも、すくなく
ニホンの現在の推理小説のトレンドに詳しくないので、この作品がどのような位置にあるのか、半ば手探りではある。 といっても、この作品はもはや古典ということになっているのだろうが。 ふつうの「殺人」にくわえ、人形への殺人がかかわってくるので、メ
巷にも本読みの巧者なるものは存在する。 読むための技術なるものも存在するが、じつは平均的な読み方というのは、ありそうでないものだと思ったほうがよい。 この本では再読のすすめもあり、いざコメントしようとしたら、いくらか前に読んだためもあって