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2017年01月06日06:46

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昨年見た3本の劇場アニメについて書く

■アニメ映画「この世界の片隅に」が異例のヒット…その秘密はCFだった
(産経新聞 - 01月04日 22:08)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=4370744

昨年映画をよく見た年でアニメは「君の名は。」「映画聲の形」「この世界の片隅に」を見た。それらについて書き残したいので書くことにする。
「君の名は。」は超異例の大ヒットアニメで紅白でも取り上げられた今年度の興行収入ナンバーワン映画だ。監督は新海誠でそれまでは興収が一億円程度であり知ってる人は知っているが知らない人は全く知らない人だった。だがこの映画で一気にポスト宮崎駿になった。彼は日本のアニメクリエーターとしては超異例の経歴の持ち主でコンピュータを駆使して少ない人数で映画を完成させることができる。「ほしのこえ」は音楽や声優は別としてほとんど一人で作成し彼の初期から注目する人には注目されていた人だった。彼の作る作品の誰しもが認める明白な映画的アニメ的特徴は圧倒的に美しい美術である。彼以外あのクォリティでアニメを作る人は今までいなかった。その絵は彼の独特の目、感性がなければ描けない。似たようなイラストは世の中にはある。しかし映画に必要な千数百枚以上の美術は、映画として成立させるのであれば、描かれなければならない。絵によっては数秒でもう二度と使われない。その美術のクォリティと量がものすごい高い水準で彼のどの映画で存在している。彼の美術は中毒性がありその気持ち良さは人を虜にする。
その彼の美術に添えられている物語は青春期の甘くて苦い恋愛ものだ。ネット界隈では彼の映画を童貞臭すると言われているが、彼の描く世界は欲望を露わにしないひたすら美しい世界は失われた理想への願望も包含されている。
彼の今回の興行的な大成功は彼を日本有数のクリエーターとして世間に認識させることに成功した。童貞臭と言われた世界観は潜めて彼の良いところだけがクローズアップした君の名はは大量動員に成功したエンターテイメントだ。今までの彼の個人的な映画からたくさんの人が関わり製作され老若男女みなに好まれる映画に彼の作った映画は変わっていった。彼は自分が望んだ通りメジャーな映画監督となり経済的名声的な成功を手に入れたのだ。
「映画聲の形」は京都アニメーションという会社が作ったものだ。監督は山田尚子でけいおんというテレビシリーズおよび映画が彼女の出世作だろうか。この会社は深夜アニメで実績をつみ徐々に大きくなってきた印象を受ける。京都アニメーションは三、四人の監督で深夜アニメを定期的に作成しそのアニメが当たれば総集編や続編を劇場ものとして映画を作っていた。「涼宮ハルヒの消失」「たまこラブストーリー」と劇場用アニメは作られてきたのだが、今回の「聲の形」はそれまでの映画と違い深夜アニメとは切り離されたそれだけで単体として作られたものだ。聲の形は原作の漫画が一定の評価を持ち脚本的クォリティとしてはハズレがないと想像させるのは容易だった。「涼宮ハルヒの憂鬱」や「氷菓」「響け!ユーフォニアム」で見せた作画のクォリティも合わせれば質的な成功は約束されたようなものだった。
漫画の「聲の形」は、この映画を知ってから読んだのだが聾唖の障害者、いじめが主要な題材の野心作だ。この漫画のすごいところは、小学生の時代の子供の残酷さと純粋さ、人と人とがお互いに分かりあおうと努力する姿勢とその希望と絶望、その向こう側にある奇跡を描いていて、漫画のレベルには収まらない高い内容を持っている。この漫画に描かれている人間の原罪とその浄化はキリスト教的モチーフであり漫画家の大今は明らかにそれを意識してこの漫画を描いている。この漫画は漫画家の大今がティーンエイジャーの時に漫画賞の応募作として作られたのだが、自分中高生の時と照らし合わせて考えると末恐ろしくすら感じる。天才的すぎる。
「映画聲の形」はそんな成り立ちを持っている。
この世界の片隅に、も原作は漫画とのことで自分はこの漫画は未見だ。原作者である漫画家の人は広島の人とのことで「この世界の片隅に」とその前作も戦時中の生活が描かれているとのことだ。原作者は広島での原爆体験を持つ人たちが高齢化で亡くなっていく現状もあり資料やインタビューを重ねてこれらの漫画を作ったとのこと。
そんなことで「この世界の片隅に」は、戦時中の広島の付近にある呉という街で生活した女性の日常が物語だ。広島に住むすずという女の子が結婚して呉に移り生まれ故郷に原爆を落とされて終戦を迎えて生活を立て直すというのがあらすじ。
この映画のすごいところはディテールの丁寧さにある。アニメではワンカットワンカットが絵で描かれて金額が発生する。ゆえに手間、労力も当然かかる。よってアニメを作るのに予算的労力的に苦しい状況になると表情のアップをして楽な方に逃げることが少なくないのだけどこのアニメにはそれがない。ユーチューブで岡田斗司夫が言っていたけど例えば箸を持ってご飯を食べる動作における箸の持ち替える演技やそれ以外にも食事を作るシーンでも草をむしるシーンでもいちいち丁寧で、ちゃんと演技させる。ゆえに引きの絵が多く、効果として小津のような構図のしっかりとした昔の日本の映画を見ているような安心感を感じることができる。古き良き日本を丁寧に見せてくれている。この映画において最もすずが心情を露わにする場面は敗戦のときに一人で畑に行って怒りで悔し涙をながすとこのなのだけど、その時以外は本当に引きの絵が多い。例えば姪と自分の手をなくして布団の中で謝罪して泣くシーンもドラマチックには書かず客観的に引いた視線になっている。そのようなアンチクライマックス的な姿勢は、すずの先ほど述べた号泣シーンを際立たせる効果があるが、丁寧に作り積み上げるクオリティがなければ失敗してしまう。この映画はそのクオリティを最後まで損なうことなく積み上げることに成功した。この世界の片隅にの沢山あるいいところで自分が感じた一番ポイントはそこにあると思う。

以上が自分の感じたこれらの映画の特徴だけど、これらの映画の中で自分はどれが一番好みなのかというと聲の形だ。
君の名は。は登場人物の行動を起こす内的動機が一番簡潔で分かりやすい。瀧君にしても三葉にしても彼らの心情としてはお互いを求めていることで一貫していて、朝起きると忘れているという仕掛けが簡単にはお互いを知り得ない。その歯がゆさが物語を豊かにしているのだけど、逆を言えば極めて単純な話ともいえる。新海が今後よりクリエーターとして大成するにはより言葉に言えないように複雑な感情や複雑な登場人物を作り上げることが必要になると思う。個人的には宮崎駿は魔女の宅急便、紅の豚ともののけ姫とでは明白に質的転換をしていると思っているのだけどそういう転換が新海にも必要だと思う。もちろんあだち充やさいとうたかおのようにずっと同じテーマを扱っても構わないのだが本人により映画監督としての名声を望む気持ちがあるのならば人間や社会への洞察をもっと深めないとならないと思う。逆を言えば、これらの映画を作った3人の映画監督の中で伸び代が一番ある人は新海だろう。今でも十分に持ち合わせている作家性に深みと広さを加えることができたら宮崎に匹敵する人になれるかもしれない。
この世界の片隅に、は前述の通りとてもよく作られていて、それは脚本にも落とし込まれている。家に焼夷弾が落ちた時のすずの魔がさしたような感じとか、多分二度、三度みても細かい発見がある映画なんだと思う。この映画の成功の分かれ目は、すずさんに感情移入できるか、すずさんのことを見ていて好きになるかどうかに多くかかっていると思う。そして自分はそれにはあまり成功しなかった。自分の共感力があまりないのも一因だろう。自分は北海道出身で広島出身ではない。自分の戦争に関するリアルな記憶はなく幼稚園のときの用務員のおじさんが戦争で片足をなくした義足の人だったぐらいのものだ。片渕監督がディテールを極めてすずさんの生きる世界をできるだけ克明に描写して彼女が生きているような感触をありありと観客に感じさせるという努力の方向はとても正しい。それにうまく乗れて共感できた人は、脚本の緻密さ、演出の丁寧さ、語られる内容の高尚さから五億点あげられるのだろう。自分のおばあさんや近所のおばさんが語った戦争体験とすずさんの生活を重ねてリアルに生きている感触を得た人は本当にこの映画の視聴体験は最高のものだったはずだ。だが自分には前述の通りあまりなかったのだ、残念なことに。以前フェリーニの道という映画を見た。傑作だ、名画だという評価は不動のものだが、ヒロインである道化の彼女に共感できず自分としてはいまいちピンとこなかった。もし自分がイタリア人であったならば、戦後まもなくのあの時代の空気、感触を持っていたならば共感できたのかもしれない。この世界の片隅にをみてフェリーニの映画のことを考えてしまった。
映画聲の形はこの世界の片隅にと比べて脚本はイビツで違和感を感じるものがある。なぜ小学生の時にいじめられた硝子が高校生になって将也と出会ってから恋に落ちれるのかとかが一番大きい違和感だと思う。彼女の心の動きは正直理解の外にあり、それは物語を成立させるための道具、仕掛けのようにも感じさせる。それ以外にも細かいところでやはりイビツに感じるところがある。植野はなんであんなに手が早いんだろうか。こんな人間いるのかよって思う。ひっかかる瑕疵があるのだ。ただそれを補うに十分なほどの魅力が自分には感じられた。将也や島田の持つ残酷さとそれらにより引き起こされる重苦しい小学校生活の空気、それを機敏に感じ取り不登校になる佐原、高校生の将也の感じている重苦しい雰囲気は、自分にとってはかなりリアルだ。軽率で何も考えずに相手にかなり深い傷を負わせ、それによって将也は苦しめられ暗い高校生活を送る羽目になる。意志と結果の非対称性は寓話的で奥深ささえ感じられる。キリスト教的原罪の感覚なのだろう。そして佐原によろ植野にしろ将也を落っことしてしまった後の硝子にしろイビツで弱くて乱雑でありながらそれでも関わり合いを持とうとする姿勢と、自分の殻をやぶって世界に心を開こうとした高校生の将也の物語は自分にとってはものすごく惹きつけられ揺さぶられる。高校生になった彼ら彼女たちは不器用でありながらも力強く前向きに変わっていってるのだ。彼女たちはいびつで人を簡単に傷つけたり簡単に傷ついたりするのに凄く大切な純粋さを持っている。この人物造形の複雑さすばらしさはこの3本の映画の中では飛び抜けている。映画では将也がクリアに音を聞くことにより涙を流すのだがその自己改革は無様ながらもかなり前向きだ。人が変わっていく姿を描写するのが映画の一つのいい点だとしたら聲の形が一番優れている。それがありありと感じられて理屈抜きに感情としてこの映画が好きなのだ。
多分これから催される映画賞ではこの世界の片隅にが沢山の賞をとり、興収の成功において君の名はもほどほどに賞をとり、聲の形はあまり賞を取らないだろう。だがいびつな要素の組み合わせによりよりリアルと感じられる物語を作った聲の形が自分の中ではもっとも評価に値する映画だ。それは完全に自分の嗜好だ。理屈抜きの好き嫌いの話だ。なのでお前の言っていることはおかしいと思われるかもしれない。でもそうあることしか自分にはできないのだ。

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