ニホンは永い間、あらゆる意味で中国の影響の下でうごめいていた。
圧倒的な支配であった(近代での哀しい歴史をのぞいて)。
それでもニホンにも時機を見極める眼のようなものはあり、それはたとえば遣隋使の廃止のようなものであった。
いっぽう、ペリー来航以来、こんどは米国の影響を陰に陽に受けることになった。
ニホンの近代史なるものを、米国の存在を通して眺めてみると、ある意味ですべてが読み通せるような気がする。
ニホンも米国もそろぞれコンプレックスを抱いているにちがいないが、それでも強がりばかりで生きている。
この百五十年を通じて、ニホンが米国の属国であったと言い張るのは、ひとつのメタファーであるにしても、誇張に過ぎているかもしれない。
しかしこの本が書かれてから十年以上も立っているのに、さらに米国はすでに先が見えているというのに、それでも米国におべっかを言い続けなくてはならないのはなぜか。
それはこの本にてかなり各論的に取り上げられているテーマである。
またはいまの政権がとりわけ特殊であるために、わたしたちも日米関係についていびつな眼で見てしまうのだろうか。
ということで、本来は米国論であるはずなのに、いま、日米関係論として読んでしまうのは、おそらくアンハッピーなことだろう。
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