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2017年02月27日13:16

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『沈黙』について(遠藤周作、およびマーティン・スコセッシについて)その1

 信仰とは個人の内奥、ないし尊厳にまつわるものであるから、他人が何のかんの、と触れることはご法度である。
 現実の世界では、宗教の違い、教派のちがいでときには争いなるものが沸き起こる。
 わたしは、キリスト教の真髄は、善人なおもて往生す、いわんや悪人をや、につながっていると思っていて、この映画のコンテキストでも、とりわけキチジローについてはそんなことがいえると思う。

 ただし、宣教ということについては歴史のコンテキストで見直さないといけないことも往々にして浮き上がってくる。
 歴史上の、スペイン、ポルトガル勢力はイスラム勢力と拮抗せねばならず、そこでは聖職者まで銃を持つことが強いられた(いまの研究ではイスラム、カトリック勢力はそれほど敵対関係ではなかったとされることも多いが)。
 以後、ヨーロッパの拡大において、イベリア半島の世俗権力の後ろ盾をカトリック教会は担った(むしろ、各修道会の修道士ということであるが)。
 カトリック教会は、悪習にそまる原住民のキリスト教化のためにスペイン人に使役されるのは正しい、という考え方を取った。
 メキシコのようなくにでは、教会は征服、そして支配のために大きな役目を果たし、それは今日現在にまでいたっている。
 ただし、都市では高位聖職者が自堕落な暮らしを送っていたのにひきかえ、辺境の好戦的な原住民にたいしての布教を試み、殉教することだけに望みを抱いていた名もない修道士も数多く存在していたのである。
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