遥かな昔から書き起こしてトウキョウを、ニホンを語る。
もし字義通りに受け取れば、トウキョウの郊外に森が溢れていた頃。
そこからもし飛躍を許されるならば、トウキョウがニホンの人質になっていた時代のことか。
明治百五十年といわれる昨今、あらためて読み取ってみるべき意味が込められている。
とにもかくにも、キリスト教、あるいはキリスト者がニホンの伝統的社会とコントラストを見せていた時代に、その内側において何があったか、あるいは、そのふたつの社会にどんな交渉が成り立っていたか、そんな見方からもとても興味深い。
しかし社会を上から見下ろすのみでなく、個人に執拗に迫っていくところに、この作品の凄みというものがあるのかもしれない。
とはいっても、遺著として書き手はどんな思いで綴っていたか。
自分を、そして時間を乗り越える意味がこめられていたにちがいない。
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