ふぅ、やっと講座機関誌「層」のための原稿を書き終わった。日曜午後&火曜一日&水曜午前で30000字超。長すぎると、また叱られそうだ。タイトルは「『私の男』の結晶イメージ」。今年度有数の邦画、熊切和嘉監督『私の男』をドゥルーズ『シネマ』1&2を
「現代詩手帖」の年鑑号での拙稿の一節にこう書いた。《詩篇はその詩篇に出会う機会性ひとつで自足的に読まれればいい。ところがひとりの詩作者を継続的に読むためには、その詩作者の「変化」こそが読まれなければならない。詩篇内容よりも変化のほうにむし
うっかりしていた。仕事がおわり、いまごろ夕刊チェックをしてみると、ぼくの書いた文章があった(もう連絡が遅すぎるか)。北海道新聞本日(12/17)夕刊4面。「北海道新聞文学賞(詩部門)を受賞して」という但し書きがサブになって、メイン見出し「真実
【杉本真維子「川原」】 「現代詩手帖」12月年鑑号で評価の集中した詩集のひとつに、杉本真維子『裾花』があった。ただしその詩集には、「詩の被災」「意味の破壊」など暴力的な解読不能性を強調する評価が主流をなした。ところがこの詩集が創造するのはむ
〆切のまったくない純白な元旦など、なかなか来ないものだ。今度来る元旦も、またも依頼された原稿がこころをかすめる不安定をかかえることになってしまった。 まずは昨日。学部授業のまえTAさんの授業準備を待っていると、北大短歌会の気鋭女子たちに囲
はじまるみづのゆれをゆきかひひかりのなかになみなみときえしびとのゑまふみらいのむきへむなしくあがくこのあをのかい とどめるなうのしわふかくにはをととひうかぶしのまりあんぬしろこんれいのうたもをはんぬかみさりしひのふゆあれのには かたみとの
一週間ほど、日録アップを怠っていたが、べつだん病気だったわけではない。序数詩篇の連作が先週、「50」で終わったとかんがえ、そのときに自己達成感と虚脱感がふたつながらあって、あとは日録アップにむけてうまく自分が調整できなかったのだった。 もと
50 読むおんな、という画題がたしかにある。よみすすめる本、その頁からの反映をうけて、わずかにつねとはちがう、うつむきがちの顔がほのめいている。予感めいたものが描出の核心をただよう。そこへ文字どおりの文字づらをおもう。むろんなんの本をよん
49 「OL」「整体」「潮吹き」「老廃物」で検索できる動画が、かかれていないのに書かれている詩のようだ。はじらいの暗愚にかたちのよさがまつわり、みごとに疑念と期待とが中間化されている。それでもこの世にありえているひとりのおんなが、そんなし
48 眼のなかに眼のあることがうつくしい。ときおりそんなむすめがいる。このばあい左右の眼はそれぞれ二重性だが、たとえばすずしさのかがやきに淫蕩などをかくしているのでもない。ただのおなじものがひとつの場所にかさなっているだけだ。そんなまなざし