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2014年12月11日08:24

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近況

 
一週間ほど、日録アップを怠っていたが、べつだん病気だったわけではない。序数詩篇の連作が先週、「50」で終わったとかんがえ、そのときに自己達成感と虚脱感がふたつながらあって、あとは日録アップにむけてうまく自分が調整できなかったのだった。
 
もともとぼくの最近の連作は、一篇めができて、その「方式=定型」が詩作の可能性を尽くすまで反復される。むろん詩集にしたときの分量も一方で念頭にあり、「50」で満尾というのは「40」くらいにさしかかった段階で判断していたことだった。そうなると、終わりへ近づいてゆく連作も「祝言」をなすための緊張と開放を併存させてゆく過程となる。これがなかなか集中力をしいる。たとえば詩想がふとおとずれても、「その段階ではふさわしくない」ものは、捨てざるをえない。
 
仕上げた連作がうまく展開しているかどうかは、いったん詩作の臨場感が消え、余韻がゼロになった時点で、「他人となって」読み直してみないとわからない。いまは完成しているストックをただ放置してある。
 
詩でやることがなくなって、ここ一週は、方向をかえ、映画評論を読むことを自分にしいてきた。川崎公平さんの『黒沢清と〈断絶〉の映画』(水声社)の出来のすばらしさに乗じて、長門洋平『映画音響論』(みすず書房)など、ことし買って積んだままになっていたものを読んでいたのだった(長門さんの本も見事だった)。
 
ぼくの所属する講座の機関誌「層」の原稿を書くためのウォーミングアップも兼ねている。「層」にむけては詳述したい映画が一本あるのだが、それに対応できる参照文献がないのでは、と不安になっていた。この不安を解消すべく、基本に立ち返り、映画評論ついでにドゥルーズの『シネマ』1&2も再読してみる(いまは「2」の半分弱まで)。そこでしめされている概念はたしかに脳裡に固まっていて、教科書の公式にたいするように自分のなかでうごかない。ところが読み直すと、やっぱりドゥルーズだ、アタマのなかが動いてきて、書こうとしている映画の細部記憶とスパークをはじめた。原稿はクリスマス前までに仕上がるだろうか。関連作品のチェックも何段階かあり、スケジュールにはあまり余裕がない。
 
そういえば停滞したときに、打開材料としてドゥルーズを「つかう」というのは、ぼくには多い事例だ。たとえばベンヤミンなら読み直すたびに嬉しく味読して幸福な体感が導かれる(ヘンかな)のにたいし、ドゥルーズは自分の思考様式の奥に活を入れる。じつは詩作に詰まったときにもドゥルーズを自己「処方」することがある。これが、自分の個性なのかもしれない。以前は西脇順三郎なども賦活剤につかっていたのだが、リズムに影響をうけすぎるので、「利用」しないことにきめたのだった。
 
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