この著者は複眼的思考に恵まれた言語学者だと思う。
このテーマについては類書が山ほどあるはずで、わたし自身にも言いたいことはたしかにある。
ところが本書は、ニホン人にとって外国とは何か、外国語とは何か、というところから始めている。
つまり、中国とは、漢文とは何か、ということで、さらには、近代ニホンにとって英語は何か、ということを解き明かしている。
さらには、ニホン人にとって英語は必須であるか、つまり他に優先されるべきものはないのか。
この国際化社会において、英語が果たす役割は何か。
著者の思想は果敢であり、説得力がある、つまり、ニホン人すべてがこれほどまで英語に精を出さなくてもよく、それは労力の無駄使いでもある、と。
もちろんそれにも一理ある。
さて、本書が刊行されてから二十年が過ぎている。
世は、パックス・アメリカーナがすすむばかり。
著者の肩を持ちたいけれど、趨勢なるものも無視できない。
英語を修めることは、いまのニホンでは労力がおおく、嫌々ながらのひとも少なくない。
それにもかかわらず英語を使いこなせないと、社会で困るのだろうか。
もちろんそうだ、とも言えるし、でも、そうかなあ?とも言える。
そういうどっちつかずがいちばん困る存在ではあると思うのだが。
ログインしてコメントを確認・投稿する