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2021年08月26日13:16

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奥泉光『石の来歴』(文春文庫)

 時間とは日常と非日常とに分けられると思われる。
 ときとして生涯すべてを日常でしか過ごさないようにみえるひともいるが、もしこころの闇といってよければ、そんなものに見舞われたことがあるかどうか、周りのひとは気づかない。
 内的、外的要因によって非日常に無理矢理、連れ出されることもある。
 「三つ目の鯰」では田舎という日常が描かれる。しかし都会定住者にとって田舎に赴くことは、すくなくともその当初は非日常であるかもしれない。
 戦前の農民大衆は日常世界が延々と続くなら、めったに自分の村から出ることもなかっただろうし、土地の智惠を熟成させてゆくだけの時間でしかない。
 しかし権力によってニホンの一般民はエテロな世界を知ることになった。
 それは機会であったかもしれないが、権力の下であってみれば、非日常の極限へと押し込まれる。
 さて「石の来歴」の主人公たる書店主は、過酷さというか死を隣り合った時間を過ごしながら、運良く日常の時間に戻れてしまえば、日常と非日常という二つの世界を分け隔てることで生き抜いていけるように思う。
 しかしことはそう容易ではないらしい。
 戦闘でのPTSDはヴィエトナム戦争において注目を浴びたが、まぎれもなく朝鮮戦争でも存在したし、太平洋戦でもしかり。
 そのふたつを分け隔てて生き抜けているとは思っても、時がたつにつれ、さらにその日常と非日常とが絡み合ってくることがあり、その多くは悲劇におわる。
 あるいは日常の安寧さに浸れば浸るほど、非日常がリアルに迫ってくるという決まりがあるのかもしれない。
 この作品では、その絡み合いが緻密だ、つまり芸術的に緻密だ、ということである。
 それに比べると、「三つ目の鯰」ははるかに平明そうにみえる。
 それでも親族間の間の水面下には緊張がはらまれている。
 地方にてプロテスタントの布教を広めるとき、一族の仲の関係、またはその墓をいかにすべきかとか。
 著者の自伝に近いノリなので、社会人類学的発想に大いに助けられ、「石の来歴」と比べ、少しも劣っているわけではないと思える。
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