恐怖のまえで個人はその相貌を失い、単純化されていく。
死のまえではだれもが平等であり、ふつうはその平等性はそれほど意識されないが、死とか絶対的運命をまえにしたときは、だれもが裸のそのままの人になり、いわば人格でさえその形が曖昧なものとなっていく。
しかしながら癌病棟というコミュニティーのなかで、一人ひとりがこの作品ではくっきり描き出されていく。
つまり人と人のつながり、その過去・現在・未来、思惑やら逡巡やら、期待やら絶望やら。
むしろ、より意識的な生が選ばれているのではないかとさえ思えてくる。
ひとが生々しく動く。
それは驚きでもあり、読む者にとっても歓びでもある。
描かれているものの全体に畏怖せざるをえない(この畏怖には、想像不可能だった世界が描かれていることへの嬉しい当惑もあり)。
(くしくも、ソルジェニーツィン生誕百周年の日に読み終える。これもなにかの縁か?)
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