(2)不可避的にゴーギャンはゴッホと比べられてしまう。比べるられる前に、すでにゴッホ・聖なる愚者、ゴーギャン・自分勝手な日和見主義者、というような色眼鏡をわたしたちはかけているのではないだろうか。あるいはわたしたちはゴーギャンに弁舌の機会を与えるべきなのかもしれない。だがゴーギャンの血を問うことはさいわいにして可能だ。それはバルガス=ジョサの仕事があるからだ。ゴーギャンの絵画制作に、流れている血がどのようにかかわったか、いったい考慮するにあたいするかという考え方ももちろんありえる。本人は否定したがったかもしれないが。
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