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2015年08月09日14:36

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江代充について・3−2

 
(承前)
 
『昇天 貝殻敷』につづく『みおのお舟』では、「想起」にたいし(妙な用語になるが)「事実生起の写生」の気味合いがよりつよくなり、ほんのわずかだが、詩篇の趨勢が「よりながくなる」。気をつけるべきは、江代詩では回想が想起にずれる換喩的な鉄則のある点だ。そのとき「だれがだれを」という関係性が、いわば「世界原理」に逢着して不安定にゆらぐ。まずは以下を全篇引用――
 
【隣家の庭】
 
ながい午後の土間をとおり
ひとのいる部屋のまえを見舞って
友の名を呼びながら
あかるい戸口から庭のなかへ出ようとすると
見えない友の
寝たきりの祖母が
その友の名をはっきりと呼んだ
いまはここに
わたしひとりしか居てないので
まだちかいところへ
裏木戸からのがれでた
埋もれたとりでのうえから
友の声音でこたえようとするわたしなのか
 
計13行が連用つなぎの複文の駆使で、たった2文で構成されている(それぞれの文尾は7行目「はっきりと呼んだ」、最終行「わたしなのか」)。その構造じたいに錯綜感がある。「わたし」は場所の移動をともないつつその過去像を想起されていて、この不安定要素により、隣家の友の寝たきりの祖母が気配をかんじて友の名を寝床から呼ぶその声に、惻隠のあまり「わたし」が友の声音でこたえようか否かの葛藤が起こる。
 
「わたし」から「友」への生成が起ころうとしているが、詩篇の最終時制は、その寸止め的直前で、「――しようとするわたしなのか」という奇異な構文をつくりあげ、静謐が確保されることとなる。「わたし」にかかわる再帰的疑問文は、もともと逸脱的だ。現に問うている者と回答を第一に期待される者が同一だという自己言及パラドックス。詩ではそこに「わたしという亡霊」が二重化する。二重なものが一重に「潰れている」様相は静謐だ。杉本真維子の自己再帰文の奇妙な一節をふとおもいだした――《わたしは/やさしいか》(「やさしいか」『袖口の動物』)。
 
「わたし」もまた隣家とどうようの祖母をもつのか。あるいはもともと「祖母」というものに弁別などないのか。そのような根源的な不安におちいらせるように、『みおのお舟』では「祖母」主題のべつの詩篇も置かれている。「隣家」では「声への応答可能性」だった主題が、つぎにしめす「蛇」では可視化のむずかしい幻影が主題となる。書かれていることがわからないのは、カフカ的な精確さが過剰なゆえではなく(たとえば「父の気がかり」における「オドラデク」の描写)、「想起」そのものにある錯迷が「たりなさ」と手をむすび、それじたいの場所が余白となってしまった、倒錯的な光源化のあるためだ。その全篇――
 
【蛇】
 
白い手をつつみこみ
よこたわった祖母のいる物静かな部屋も
わたしのいる廊下も全部あかるいが
それはほかの者が暗い場所で
眠りつづけるからだろうとかれはおもった
わたしの膝頭はひかっている
よく転ぶ子どもだったからだ
白い蛇が廊下を這ってゆくと
近づいた部屋の障子に立ちあがる
おおきな鳥の影が仰ぎみえた
それはいっぱいに羽根をひろげ
わたしの白い手を孔雀のようにつつみこむと
またしずかによこたわって
うごかなくなった
 
対象が想起内の視点移動により「よびかえられる」江代詩では、5行目「かれ」と直後6行目の「わたし」はおなじ人物だ。祖母が(病)床に寝ている気配。家人のほかも寝ているとすれば、それは休業日の朝だろう。「子ども」の「わたし」のみひとり起きて、ひまをもてあましている。
 
白い蛇が家の廊下を這い、その不吉な気配におどろいた鳥が羽根をばたつかせ、空中に逃げようとする状態を、わたしは障子ごし、鳥影として仰ぎ見たのだが、そのうごきにわたしの手がつつまれ、その手のなかで鳥はおどろきをしずめて、またしずかにうごかなくなったと、のちつづられる。想起内容そのものの理路がこわれているのは、子ども時代のおぼつかない記憶が想起されたためだろうか。
 
江代的想起では自他の弁別があいまいになり、その曖昧化の推移に、世界様相が定着されるとすでに何回かくりかえした。この法則を過激化すると、廊下を這う白い蛇もまた「わたし」であり、その「わたし」におどろく「おおきな鳥」も「わたし」というさらなる逸脱が起こる。
 
この詩篇でいちばん咀嚼しがたいのは、冒頭1行「白い手をつつみこみ」が浮いている点だろう。独立して「わたし」の再帰的な動作がしめされているととりあえず了解すると、かたちをかえ終わりから三行目《わたしの白い手を孔雀のようにつつみこむと》が出てくる。当初予想された「自己再帰」は「他者干渉」に変貌しているが、本質的な差異がないと達観したとき、「わたし」「白蛇」「おおきな鳥」それらの差異性が同一性にむけて「潰れて」しまう。しかもその潰れすら、最終2行の再平定によって、あったかなかったかがわからなくなる。
 
江代は回想を起点とする想起そのものの不可能性を再帰的に想起しているのではないのか。これは無から無への一巡しかつくりあげない。そのはずなのに、ことばが具体的な連鎖としてつらなってしまう。けれども発語の前提がそうであるかぎり、ことばは静謐にみたされてゆくしかない。
 
いずれにせよ、江代はなにかの「中間」、その様相の本質的な静謐を想起している。最後に『みおのお舟』から現代詩文庫未収録詩を全篇ひいて、その奇妙さの内実とふれあってみよう。
 
【沈んだ娘】
 
波打ちぎわのふれる浜辺には
大腿骨に似た白い木切れがおちている
肩にかついで子供たちの前へ出ていくと
木切れにくいこんだ
おおくの砂つぶに気がついて
海からの木であることがわかってきた
はやくお前もかがやく飯をたべておしまい
その海からの温かな棺さながら
みどり児のいる肋木の道をかえりつづけ
庭へいこう
庭へいこうと歌おうではないか
庭には物干竿がみちあふれ
娘は周囲の見る眼にも分断されて
それぞれの分け前になるのだ
わたしたちが担ってきたのは
あの娘たった一人の世界でもあるにちがいない
 
終わりから4行目に「娘」がとつぜん現れるが、唐突さの印象はただしいのだろうか。江代詩にはめずらしく終わりから5〜7行目の行頭が「庭」の字で揃う磁場が形成されていて、それで唐突な唄文句「庭へいこう」が具体的に庭を召喚するちからを備えたとみえる。しかも浜辺でひろった大腿骨のような木切れと物干竿に同一化が起こり、その大「腿」骨が娘の肉体の所在に喰いこんで、娘そのものが浜辺のしろい木切れにすりかわる。冒頭から3行目の「かついで」と最後から2行目の「担って」も近似物どうしのスパークを交わす――そんな騙し絵的な構造が次第に判明してくる。そうして娘のいる場所に物干竿が「みちあふれ」ているのみならず、木切れ=娘という図式が浮上してくるのだ。
 
明示されていないが、窃視症的な衝迫がかんじられる。たとえば娘が物干竿にしろいシーツをひろげて干す一瞬には娘の上体はそれに隠され、下半身のみが視野にのこって、「大腿骨」の存在が強調されるのではないか。からだの「部分化」が、そのからだへの視線の部分化を付帯させてしまう。そうして娘は終わりから3行目《それぞれの分け前になるのだ》。「世界の恋人」というものがあったとして、前提となるのは、事物から当人への対象推移と、それが視線により分有できる体制の確立だろう。詩篇はそんな愛の欲望にふれつつ、同時にスピヴァクのいうような女性性の本質、自体性をたちあげる。
 
むろん詩篇を虚心に読みすすめていったとき(あるいは即座に再読したとき)にはポストモダン的な欲望論など作動しない。ことばのすすみそのものが、偶有的な概念接着剤をひらめかせ、あやうく自己展開してゆく「ひかりの移り」のみがある。それでも江代的エロスとはなにかを読者はおもいなおす。そこで恋愛詩にとうぜん前提される「対象性」が、江代詩では審問にかけられていると気づかされるのだ。これこそがしずかな生成にかかわっている。
 
(つづく)
 
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