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2015年08月05日19:01

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江代充について・1

 
【江代充について1】
 
江代充の第三詩集『みおのお舟』(89)、その巻頭(つまり大切な位置)に計7行、短詩といっていい詩集標題作「みおのお舟」が収録されている。まずはその全篇を引こう。
 
【みおのお舟】
 
みどりのおい繁る洗い場のかげで
ながれるふかい水のなかへ
ねずみとりの柄をさげしずめていた
すぐに身をふるわしてうかび
金網にゆびをまげきつくなめらかな
唯一のかおをこすりつけると
仰向いてみおのま上にながれていった
 
詩集『みおのお舟』は所蔵しておらず、まずはその抄録形を『現代詩文庫212・江代充詩集』(2015・4月)で読んだ。おそらく冒頭標題作であることで作者の自認がつたわってくるこの詩篇(の意味)が当初まったくつかめなかったのをおもいだす。再読三読するうち、「ねずみとりの柄」「唯一のかお」がまず理解の障碍になっている点が確信できた。
 
ねずみとりを生家などでつかったことはないが、害獣=ねずみを餌でおびきよせ、ねずみを捕えるその器具は形態的にはどうも二様に大別できるようだ(ネットでの画像検索による)。ひとつは板状(板上)器械で、おびきよせたねずみの自重で発条が作動し、おりてきた四角の金棒でねずみのからだを一瞬にして挟みこむもの。いまひとつは金網もしくは金柵でつくられた牢というか籠内にねずみを誘い、ねずみが入った瞬間にそれまであった入り口が下りて確保するもの。詩篇であつかわれているのは、「金網」の語があるから後者だろう。ならば「柄」とは、その入り口をあげたときに取っ手として掴めるようすをあらわしているのではないだろうか。
 
そのように(とりあえず)把握してみて、ようやく詩篇がその理路の全貌をあらわしてくる。そのまえに注意すべきなのは、「ゆび」「かお」という身体部位の所有格がしめされていない点だ。省略されている所有格は主語どうよう主体だとする日本語原則を適用するのではない。文脈から補うべきだという江代詩の個別原則がかんがえられるべきなのだ。端的にいうと、「ゆび」「かお」には「ねずみの」が文脈上のせられる。このときのひらがな表記により、ねずみのゆびさきのほのあかさ、かおにかたどられている眼の黒点のちいささもうかびあがってくる。作者はひそかに、対象にあわれさといとしみをかんじている。
 
バカみたいだが、これからする江代論の導入部なので、読者の便宜をはかり、不恰好だが詩篇を冗語もいとわず補ってみよう。( )内に補足を添え、上記詩篇を再転記してみる。
 
(周囲に)みどりのおい繁る(山中の川の)洗い場の(、周囲の視角からふと隠れる)かげ(とよばれるべき一角)で
(川の)ながれるふかい水のなかへ
(ねずみを捕えている籠型の)ねずみとりの(入り口部分をひらき)柄(としてその扉をもって)(籠)を(水中に半分ほど)さげ(て)(わたしは)しずめていた
(籠のなかのねずみは)すぐに(環境変化に反応し)身をふるわして(籠の天井部に)(反転し腹をみせて)うかび
(籠の)金網にゆびをまげ(つかみ)(そのうち)きつく(哀願するように)なめらかな
(そのねずみだけの)唯一のかおをこすりつけると
(さらに)仰向いて(いるすがたのまま)(スローモーションでもみせるように)(ゆびを離し)(籠の入り口を水流にまかせてすりぬけ)(川の)みおのま上にながれていった
(わたしはそのようにして捕えられたねずみを解放し)
(ねずみとりのその籠をいったん「水脈の御舟」と見立てた)
 
こんなだらしなくもある措辞で、江代詩にある峻厳な省略を穴埋めしてゆくと、江代詩読解のむずかしさが「たりなさ」によるのかとおもいがちだろう。たしかにまずは、同語によって構文どうしをつなぎあうことで判明性をたかめる配慮が切断されているとわかる。詩は「たりない」。構文分布が空間的もしくは論脈的ではないのだ。この詩篇には代名詞=シフターが同語反復の忌避と同様に存在しておらず、それで逆にその静謐な詩のリズムにふかい透明性が浸透している。このことが個人的な「聖画」をなす必須条件であるかのように。
 
江代詩は体験想起を原資にしている。その想起じたいは精確なのだ。のち、『梢にて』(00年)で築かれる詩的文体をかんがえればこの点は自明だろう。ところがその想起では、書かれるうちに「自然と」省略や視点の多元化が起こり、複文形成による過重化がともない、さらにはそれを詩として書く動機にあたる措辞の偶発的な詩文化すらもたらされる。しかしそこにいわゆる詩語への耽溺がない。
 
体験が対象とするのは、「出来事」の「かたち」――いわば時間推移のなかにある事象変化の「枝ぶり」への注目だろうが、江代はそれらを一気呵成に書いてしまう。このとき「枝の分岐的明示」により、「ない」「幹」まで「あらしめる」想像を読者側へ託す。
 
つまり理解という事柄をつうじ、江代詩は読者へ強圧をかけているのではない。これほど挑発性のない詩作者は稀ともいえる。詩は詩であるために「たりない」が(「世界」とおなじだ)、読者の想像はそこを蹂躙してかまわないとうながしているのだ。開放性。ところがそこで起こる逆転が計測されている。読者は世界の組成素たることばのありのままにつつまれて、詩の極小的細部を歩行しながら、自分自身の想起を元手に、世界の透明性への畏怖をおぼえるしかなくなるのだ。
 
江代詩は原理的で、しかも独自のエシロ語でしるされている。独自とは秘教の意味ではない。認識と記憶力が固有だというていどにすぎない。しかし類例がないのだ(あるいは最近の川田絢音の詩に係累性があるかもしれない)。この点をおさえると、江代詩には二元論をささえる「片方」が適用できない、ともわかる。具象的な抽象的か。むろん、どちらでもなく、その両方なのだ。絵画的か音韻的か。これもおなじだ。
 
ただし速読が可能か、遅読がしいられるかは別途のもんだいとすべきだろう。速読可能な、すばらしい詩はおおくある。速く読めば読むほど身体的なスパークが脳裡にひらめき・もつれ、それが詩的体験の中枢をなすのだ。ふるくはシュルレアリスム詩がそうだろうが、たとえば廿楽順治の脱臼的なずれをはらむ詩なども速読によってその段差がおおきくなる。小峰慎也もそうだろう。
 
速読可能な詩から遅読のふさわしい詩の作成へと、詩作者が系統発生的な変化をしるすことはじっさい多いとおもうが、それらはことばの「跳ねない落ち着き」「省略のふかみ」「音韻のしずかな平定」「想像力や言語展覧の抑止」「理解度のハードル上げ」などをつうじて実現されるというのが、詩作にたずさわる者の経験則だろう。ところが江代詩の「遅読生成」はじつはこうした範疇に置くことができない。
 
遅読生成が素軽さを放棄したはての重みとなる、というのなら論外だが、江代詩読解の一回目はまず錯綜体験として生じる。よほどの読解力でないと、初読で詩篇を十全に把握するのは困難だろう。ところがなぜかひかりのきよらかな滲みがあって、読解は「わからない」という否定をもってしても放棄されない。読者は即座に二度目の読解にはいる。そのために江代詩のおおくが短詩のかたちにひらかれているのだ。すると詩篇の理路が、その絵画的細部をあかし(やや)明瞭になってゆく。いずれにせよ、世界そのものは理路のすがたなどしていない――因果ではなく多発性と推移性で構成されている真理がその詩に温存されている。
 
即座に二度目に読むときのこっているものがある。それは初読がもたらした音韻の残像だ。その音韻残像にのって二度目が読まれるとき読者が体験するのは、二度目が(消えた)一度目のコーラス=ルフラン=リトルネロになってしまうという、エシロ語でしかありえない倒錯だろう。
 
世界は多元化され錯綜していて、体験は枝分かれしつつ枝の交錯部に小鳥めいた宝石をともし、この場所があの場所に、この数があの数にいつの間にかすりかわりもするが、それらの世界構造をあかすのは世界の実在性そのものではなく、世界への想起のほうなのだ。そういった構造じたいが江代詩では「みえない」「あらかじめの」ルフランのように反響している。「徐々に」という顕れの様相は、主体側の想起が移動する際の、未加工状態にすぎない。つまりそれは「遅読生成」とは関わらないのだ。
 
わかりにくいかもしれないので、もっと説明をくわえてみよう。詩作者の手許という視点を導入したい。たとえば「かさね(重ね=累ね)ながら書き」、詩の時空間の内包度をたかめてゆくのが暗喩詩だろう。逆に、「たえずズレながら書き」、詩の時空間の外延性を志向し、座標でくくれない詩篇の容積を(つつましく)つくりあげるのが換喩詩だ。詩作者のからだは暗喩詩よりもこちらのほうに「うるわしくにじむ」。ここから敷衍して「減りながら書き」、空隙そのものを生成対象にするのがぼくのいう減喩詩だろう。これは速読可能な詩でも成立する(もういちど廿楽と小峰のなまえを出そう)。
 
江代詩の手許はどうだろうか。「想像」を峻拒し、「ただ想起しながら書く」――たぶんこれにつきるとおもう。記憶の基盤と、記憶された結果の二重性、その中間に江代詩が存在するが、記憶されたものの結果は宿命的に想起に負っていて、そこにみられる錯綜や省略は、もともと基盤にこそ伏流していたものだ。その伏流状態を江代が崇敬しているというしかない。
 
換言しよう。江代は「二重性になりながら書き」「錯綜が錯綜のまま精確になるように書き」「世界構造のように書き」「要約から離れて書き」「視点にあたるものの移動を書き」「想起が想起対象の推移のなまなましさをたどるように書く」のだ。顕れが峻厳だからいっけん江代詩も推敲の賜物ととらえられるかもしれない(現に、『現代詩文庫212・江代充詩集』にはそうした論旨で書かれた往年の稲川方人の論考が併載されている)。だが江代は「想起しながら書いている」にすぎない。そうした「ありのまま」が錯視性をともなうのは、もともと錯視性をもつ世界構造への熟考が詩作を下支えしているからだ。
 
想像による加工は、想像した作者がどんなに独自性をみとめていてもそれは普遍につうじ、けっきょくは作品の顕れを馴致してしまう。ほんとうは世界では原理だけが奇妙なのだ。想像を峻拒し、想起だけを旨とする江代充は、ほとんどの詩作者が習いや同調によって「そう書けない」特異性をある時期から実現している。厳密の魔と錯綜が同在的であること。しかしこれを発語の病理性ととらえる向きもあるだろう。たとえばこうした資質が「溶融」という踏み外しを結果することもあるためだ。
 
おなじ『みおのお舟』から「藤棚」の全篇を引こう。前述した稲川方人の論考が直截の考察対象とした詩篇だ(稲川の論考はいつものように恫喝的な原理提示によってしるされ、詩篇そのものを端緒とした「解釈詩学」が放棄されている)。論議の便宜上、分かち書きの各行頭に序数を付す。
 
【藤棚】
 
1 道をまがると何だかひくく磊落になったきもちにつれ
2 藤におどろいてそれをくぐりぬけるため
3 かげのあるすずしいまだらの道を
4 あるきはじめたこのものはただしいのか
5 藤はなだらかに藤棚からたれこめ
6 乾いた色がわたしのひたいにもふれてきている
7 ながめていこうひとびとの前で
8 ふるい肋間がいたみはじめ
9 ゆるやかな房の真下を区切るようにすすんで行くと
10 棚が切れるまえにあゆみもとまり
11 おそらくは自他の声もきこえなくなることだろう
12 それからさきは藤のたてがみを馴らすとか
13 その藤とわたしのような
14 しきりとわからない関係になるのだとおもった
 
支倉隆子の「藤棚」(『琴座』78年、全篇は阿部『換喩詩学』232―233頁に引用)の末部にあるように、《世界のはずれに/藤棚はある》としるされる藤棚は、藤の花の咲く季節、世界内の多様性をしるす幻影的な点在となる。そこに花房が無数に垂れている。だから藤棚を予感した者は鉛直性にたゆたう不確定性として自己身体をとらえかえすしかない。支倉の「藤棚」のうつくしい書き出し――《藤棚のみえるところで/だれかが手をはなしてくれた/彼女はうつくしい湯気になる/二重唱もきこえてくるだろう》は、藤棚の鉛直性にたいする身体の鉛直性の対応と捉えることができる。
 
だからこそ、「藤棚」はそのしたをとおると危ないのだ。西脇順三郎は『Ambarvalia』中「馥郁タル火夫」で危機をつげる警鐘を鳴らす。《何者か藤棚の下を通る者がいる。そこは通路ではない。》。「そこ」は鉛直性の下部であり、なにかが届くまえのぎりぎりのすきまであって、地上のひとつの狼藉なのだ。以下、江代「藤棚」にもどって、付した序数ごとに詩篇細部の再出現を考案する。
 
【1】散歩のよろこびは「道をまがる」際の眼路の変化の意外性にきわまる。世界がふえた錯覚が生じる。だから道はほそく、垣根などにかこまれていなければならない。「まがる」ことは直進性にとっては「ひくく」おもわれることだが、ひとの散歩はいつでも余禄をもとめる。それでまがりごとに「磊落」になる。そんな「きもちにつれ」――
 
【2】眼路にあらわれた藤棚の「藤」の盛りに「おどろ」く。西脇の訓戒にもかかわらず、そこは通路として「くぐりぬけ」を使嗾している。
 
【3】【4】「かげのあるすずしいまだら」は藤棚の花房のゆれがなす地面の光景だが、その木漏れ日のゆれは上方物による遮断の結果なのか非遮断の結果なのか、それじたい「藤色」にみえる。地と上方の隙間、絢爛たる光景の狼藉を「あるきはじめたこのものはただしいのか」。恐怖がまさってくる。だから自分を自分とはよべない。幽体離脱的に「このもの」とよんでしまう。となると自己規定の起点がすでに「わたし」ではなく、上部の藤棚に移っているのだ。わたしは湯気のように稀薄に蒸散している。
 
【5】【6】藤棚をみとめ、侵入し、そのましたを藤の花房のひとつとなるべく通過する。藤棚は通過者の縮減装置だ。縮減は上方からの働きかけで起こる。働きかけには重力とそれ以外が混淆している。ときにながく垂れた花房が「わたし」(「このもの」はいま「わたし」へと復帰した)の「ひたい」にふれる。愛撫をこえた、戦慄の感触。藤の花房は遠目には世界の靉靆をあかす湿りのようだが、間近には即物的に乾いているのだ。おまけに匂いが動物のようにきつい。
 
【7】【8】わたしのほかのひとびとは、神性をみあげるように首までのばし、下からみあげてはならぬものを「ながめて」憩っている。歩をとめて、それぞれが鉛直の停止になり、配列が絵画のようだ。ひとの配列に沿うものが「わたし」の体内にもあり、それが「肋間」だが、「自他」(【11】)の相違により、肋間の内在は「いたみはじめ」――
 
【9】【10】【11】花房の空間的な連続が集中させる鉛直方向のちからにたいし、それを交叉するように「区切るようにすすんで行くと」、だんだんに精気が吸われて、「棚が切れるまえに」膂力が尽きてしまう。「あゆみもとまり」、他のひとびととおなじように歩をとめてしまったかぎりは「自他の」弁別(それは差異の境の「声」として発露される)も感知できなくなって(「きこえなく」なって)しまう。「わたし」の肋間はきえた。そのように「きえるようにして」わたしは捕獲された。
 
【12】【13】【14】わたしも他人とおなじく自分の通過している場所の魔性に気圧されて、停止して藤棚をみあげ、この世の光景の狼藉をかんがえざるをえなくなる。藤棚はぜんたいがなにかのおおきなどうぶつで、花房の垂れは「たてがみ」ではないだろうか。それを眼で梳くことが「馴らす」ことだ。しかしそうやって試しに藤を馴致してみて、かえって「その藤とわたしのような」互いの互いへの効力が「わからない関係」が生成されてしまう。そのわからなさとは、わたしが藤棚と同一化したことに起因するのではないか。しかしわたしはいつ、この足だまりを解除できるのだろう、ひとびととともに。ともあれわたしは、ひとびとといっしょなのだ。
 
ぜんたいで14行あるにもかかわらず、詩篇そのものは四文で形成されている(それぞれの文尾は4「ただしいのか」、6「ふれてきている」、11「ことだろう」、14「おもった」)。もし動詞終止形で行のわたりが連続するなら、それが藤の花房の垂れと形象的につうじあう。そうならないのは、主体が藤棚のしたを通過しようとしているためだ。鉛直の藤が水平に「溶ける」そのことが、行の連用形連鎖、もしくはそれに類似する「長い息」の効果をよびこんでいる。
 
連用形連鎖はたとえば江代の『梢にて』の時期にうつくしい猖獗をきわめることになるが、この詩篇での行のわたりは、歩行に付随する空間的な開放性をゆるやかに織りあげている。そのゆるやかさは、稲川のいう「推敲」の選択肢除外性とはまるで印象がことなる(いくら稲川が「推敲」にたいし、《書きつつある作品を言語の鏡面に密閉するのにそれ以外のいかなる反映もない》状態と独自に規定していても、いわれていることがアクロバティックにしかひびかない)。
 
この詩篇の力学は、あるときの「わたし」のあゆみを「藤棚」とともに想起しなおしたとき、最終的に「わたし」と「藤棚」が分離できなくなってしまう経緯を、想起「そのままに」ゆるやかに詩作に展開した点にある。想起を主軸に置く詩作態度は江代的だが、わたしと藤棚の錯綜は明示的に定位されていて、展開そのものが錯綜をはらみ、それが世界構造につうじてゆく江代詩の真諦とはちがう境位にうつくしい抒情性が蒔かれている。だから詩的修辞の穴埋めもまた身体抒情的になり、峻厳性と抒情性が並立する。この並立は江代詩そのものというよりは、江代のある方向での精神的な双生児・貞久秀紀の詩作を先どりするもののようにおもえる。
 
もんだいは最後の行の「しきりと」にあるだろう。江代的再帰性は対象(このばあいは藤棚)との渾沌未分へとくりかえし漸近してゆくのだ。自己は減る。やがてはきえる。ところがそれが自己の世界化をつかんでゆく。いいかえれば江代的想起の迷路は、その一角にのみ自己を一点としてのこす。そのイメージこそが詩篇の読解を最後の最後に聖別的に「救済する」。「推敲」に「言語の鏡面」(イメージ論だろうか)をキメラのように交錯させた稲川のいかめしい所論では、空転が目立ち、江代詩の特異性へなにもとどいていない。解釈詩学の具体性がないのだ。
 
対象への「溶入」という江代的な特性をもう一例、みよう。江代の第四詩集『白V字 セルの小径』(95年)所収「底の磯」がそれだ。この詩篇は詩文庫には未収録。なんと「溶入」の対象は「ねむり」のなかの「沢蟹」なので、溶入は入れ子の境界消滅的な溶解構造までともなっている。それなのに、いきものとしての主体への共感をせつなく掻き立てる。全篇――
 
【底の磯】
 
わたしがねむり
川端の宿舎からながい光が出ていくと
沢蟹は青い山襞を降りたところの
凝土でかためられた
人工的な白い川床の隅にいることが分かってきた
そこまではひと筋の道があってわたしより多くの木が生い立ち
あかるい太陽と
道をその日はじめての枝葉表記がおおっている
共に川辺に行きついたとき
それはあらかじめそこにいたのではなく
ねむりの門口でことばをうしない
よく意味もつかめずにその家を出掛けたまま
道の途上になり
そこに沢蟹と名付けうる生きものとして
わたしたちは混在した
 
「宿舎から光が出ていくと」「(沢蟹の)(川床に)いることが分かってきた」という因果提示に注意がひつようだろう。斬新といっていい。あるいは「わたしより多くの木」という措辞にある冗語ぎりぎりの機微。さらには「枝葉」で済むところを「枝葉表記」と「表記」そのものがずれ、現下に書かれている一節に枝葉末節の感触がともなうこと。たぶん「わたし」「沢蟹」の再帰性が、そのような冗語構造を付帯させていて(これが貞久秀紀ならそのまま詩論的詩篇の主題となる)、気づくと「凝土」と書かれたコンクリートと、最終行の「混在」が再帰的・頭韻的な反復関係にあるとわかる。コーラス=ルフランは詩篇に内在されていて、それが「ねむり」そのものの質をも体現しているのではないか。
 
「わたしたちは混在した」という結語がわすれられない詩篇だが、「ゆめ」ということばが注意ぶかく峻拒され「ねむり」のみが二箇所現れているこの詩篇において、「沢蟹」がどの審級に存在しているのかが定めがたい。その定めがたさと、措辞の、意外性に富みつつ混迷する展開が共生し、そうした沢蟹と「わたし」が「混在」したのであれば、「わたし」もまたねむりのなかにかろうじてしるしづけられる、えがかれた沢蟹どうようの「ふたしかなもの」にかわってゆく。ところがこの変化の方向が、凝縮できなく、外延にむけての稀薄な拡散なのがうつくしいのだ。
 
この詩篇は、「藤棚」とことなり、行のわたりを追うとき、一度目は読解に齟齬をきたすとおもう。ところが即座に二度目、この詩篇の細部をたどってゆくと、前言したように一度目ののこした音韻の残存が、コーラス=ルフランになる。つまり沢蟹と「わたし」との交響は、初読と次読との交響にひとしく、最終的にはこうした構造が、現実と「ねむり」との二重性さながら鳴りひびいているのだ。これをうつくしいとかんじたとき、「途上」の「川辺」で沢蟹と「わたし」の「混在」する規定不能のキメラ、それこそを「わたし」と再規定する縮減の運動が付帯してゆく。最終的にはこの付帯こそが心をうつのだ。そう、江代詩の「効果」のひとつは「付帯」なのだった。それは「わたし」の通過に「藤棚」が付帯して、通過が停止してしまった感動と似ている。
 
(つづく)
 
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