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2015年12月01日08:04

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アンケート全長版

 
「詩手帖」今号(年鑑号)のアンケートについては、最初、依頼文中の「800字」以内という文言を見落とし、フリーハンド(それでもなるだけ短く)で書いてしまった。編集部にミスを指摘され、あわてて800字に短縮し、送りなおした。だから全長版と短縮版がある、ということになる。もったいないので、その全長版を以下にご披露。
 

刊行順に――
 
細田傳造『水たまり』(書肆山田)
幼年記憶、朝鮮テーマ、現状への反訴、語彙の驚愕、詩法の発見、ペーソスなどが、独特の韻律意識のなかに不逞にも複合していて、わくわくする。老いこそが若さに反転している奇観。《きのうの朝のほおずき市で/江戸から来たほおずき売のおやじが/わたしの顔をしみじみと見て言った/したいだな/何度も言った》(「したい」)。
 
望月遊馬『水辺に透きとおっていく』(思潮社)
母の喪失をうたう序詩、悲哀と透明にみちた改行詩群、少年少女にフォーカスをあてた魔術的小説文体の――それでも隙間ある飛躍によって詩とよべる――散文詩群、これら「ひらかれた閉じ」による全体の妙が何度でも繙読を誘う。ひとすじ縄では括れない抒情派。ことばが跳ねないから、この作者を信頼している。《詩はいつも、ぎりぎりの生存にかけてしまうひとの、手のひらへ、はかなく降りてくる。かざした手のひらには闇がある。》(「距離感の愛へ」)。
 
川田絢音『雁の世』(思潮社)
すくないことばを、くりかえし噛みしめてゆくと、厳格な叙景精神が着実につたわってくる。東欧での体験がもとになっているのか、「テレジーン」(チェコでのナチス強制収容所所在地)、「オシフィエンチウム」(ポーランド、アウシュヴィッツ所在地)、「ラシナリ」(ルーマニア、シオランの生地)の地名もみえる。川田は雁のように時空間を渡っているのだろう。世界人の風格。《なにを浴びても/外にものごとはないという度量で/川は外を流れている》(「長い橋」)。
 
高木敏次『私の男』(思潮社)
離人的自己把握というのが第一詩集『傍らの男』以来の高木の主題で、この第二詩集でも《私のことを/私の男と呼んだ/まるで男を見つめるように/私を見つめていた》と連作が始まってゆく。以後、台湾の具体性を捨象した場での、私と私の男との彷徨が前作を超えたスケールでつづいてゆく。これほどの膂力があったとは。しかも私の男にかかわる修辞は「減喩」というほどに構文構築性を砕かれている。たりない連語からひろがる希望のようなもの。《係われるものは/姿ではない/失われたものは/仕草ではない/呼ばれたのだから/きっと/誰かがいる》(「十二」)。
 
松岡政則『艸の、息』(思潮社)
「艸」の出自をもつ作者からの視界はいつも転覆性に富んでいるが、そこには力ある肉体がひかりあふれて貫通している。詩の男性性の鑑。形容詞・動詞の名詞化という松岡文法は、ここに来て荒々しい修辞的綺語をさらに加算するようになって、詩法の更新はどこまで行くのだろうと幻惑される。往年を回想するときの器量も得難いが、以下にある恋愛の気配に息を呑んだ。《くさのさなえの幼きものや/しどけないまで混じりこんできて/そのままバスのなかに住みつきたくなる/家庭がなんだ/一篇の詩とはそういうものだ》(「詩のつづきにいると」)。


これも収録詩集の刊行順に――
 
「夏の果は血のように滴る」(川口晴美『Tiger is here.』〔思潮社〕所収)
原発銀座とよばれる福井県小浜市に出生した作者の、JK時の放課後への回想から始まるこの詩集の第一部、そのクライマックスをえらんだ。改行詩篇における一行の長さが散文的説明を超えた「たゆたい」を付帯させ、「記憶は存在しつつ非在だ」という厳格な認識をたちあげてくる。これほどみごとな自己記述は稀有だろう。詩篇は父の事故死に際しての母の行動をしるしたもので、向田邦子のドラマをおもった。《母だけが話し続けながら〔…〕/ゴミ袋に両手をつっこんですっかり色の変わった作業着を広げ/内ポケットの底にあったキーホルダーを素手でさぐりあてて取り出しました/「ほら、あった」と幸福そうに笑っているこのひとは/誰なのだろう/〔…〕/わたしはこのひとを知らない》。
 
「街角」(金井雄二『朝起きてぼくは』〔思潮社〕所収)
不如意さもふくむ日常をやわらかい措辞でつづる金井はライトヴァースの現在的名手と評価されているだろうが、詩想のプンクトゥムが詩の形成そのものをゆるがす、じつは怖い書き手であって、松下育男などの系譜につながっている。どの詩篇も達意で唸ったが、ここでは終結部に複雑なひかりの交錯する「街角」を。《街角の向こう側/ほんとうは/それはただの/曲がり角でしかなく/〔…〕/たまに人生の吐瀉物があったりするだけで/おお、今/ぼくの息子があの街角を曲がって行くよ》。
 
「白粉花」(斎藤恵子『夜を叩く人』〔思潮社〕所収)
女性的な奇想という点で、斎藤恵子の詩のゆたかさにずっと敬意を払っている。今回の詩集は恐怖など原初的な感覚を幼年記憶から掘り起こした詩篇が多かったが、「白粉花」へしめした伴侶のちいさな戯れに焦点を当てたこの夫婦年代記(しかも一人称「おれ」の余命が幾許もないことが暗示されている)が紛れこんでいて、これが新機軸をしめすものだろう。泣けた。その終結部――《おれはいっぱしの男だと思っていたが、今から考えるとほんの小僧だった。女房はねんねだった。幼い子どものする花遊びで喜んでいたのだ。白粉花のひらく夕暮れ、子どもじみたおれと女房がほの明るさの中、見つめ合っている姿だけがくっきりと浮かんでくる。》。
 
「晴れの日」(小川三郎『フィラメント』〔港の人〕所収)
小川三郎が以前より「ちいさい」詩集を出した点に清冽な衝撃をおぼえた。逆接の論理が順接の叙法に回収され、滋味たっぷりにねじれてゆく詩作にはさらに磨きがかかったが、その詩が徐々に静謐さをもおびてゆく経緯に動悸している。「晴れの日」の冒頭と途中を引こう。《小さな橋を渡るとそこは/私の場所ではなかったから/私でないひとたちが/たくさんいた。》《突然の雨のように/後ろから私を/抱きしめるひとがいた。/固く固く/私がどこにも行けないように/ぎゅっと抱きしめ耳元で/何かとても/さびしいことを囁くのだった。》。
 
「黒札」(岩佐なを『パンと、』〔思潮社〕所収)
改行末のヴァリエーション、語調変化、意想外と既視感への復帰、淡々とした自己の位置――これら練られた「技術」というしかないものによって、岩佐なをの詩はさざなみのように読み手をくすぐり、笑いを繰り返させる。それでも眼前の些末ではなく、なにか遠いものが現出して「詩の体験」を確実に所在化する。名人芸だ。菓子パン等をさまざまにうたう、すばらしい第一主題のあとも名品が目白押しだが、そのなかでとりわけ怖い奇想詩篇がこの「黒札」。換言不能の着想なので計三聯分を抜き書き紹介するしかない。《街を歩いていると/ときどき見かける/うしろすがたがある》《肩から踵にむかって/表裏ともにまっ黒けの小札をばらばらと/なんまいもなんまいも/落としているひと》《だあれも指摘はしない/あなた、内臓が見えてますよ。/なんて誰も口が裂けても言わない/ましてそれが黒い札で出来ていて/瀧のようだなどとは/誰も言わない/ばらばらばらばら/肩口から落ちて/踵で消えるだけ》。
 

国内の詩論書関係を刊行順に――
 
筑紫磐井『戦後俳句の探究〈辞の詩学と詞の詩学〉』(ウエップ)
一般には短歌とちがい「詞」の詩とおもわれている俳句の分析に、時枝文法の「辞」「詞」双方を導入した。白眉は、音律の自在さのなかに「辞」がやわらかに組織される阿部完市の詩学へいざなう七章・八章。触発されて読んだ完市の著作、とりわけ『俳句心景』(81、永田書房)、『絶対本質の俳句論』(97、邑書林)には震撼した。藤井貞和詩学どうようの汎アジア的スケールで韻律が熟考されていたのだった。
 
川島洋『詩の所在(主体・時間・形)』(∞booksによるオンデマンド)
丸括弧内にある三副題の観点から詩作行為が原理的に考察される。詩誌「すてむ」などに掲載された詩論の集成だが、これほど精緻な書き手のいたことを不明にして知らなかった。《詩を書きながら、普段話すときのようにすらすらと言葉が出ないのは、「表現」に四苦八苦しているためではない。それはむしろ、言述を支える内的な文脈と言葉とを同時的、相互的にそこに発生させなくてはならないためだ。そのとき詩の書き手は、世界を日々埋め尽くし続ける膨大な発話――話し言葉だけではなく書き言葉も含めて――の圧力による不快感をこらえ、それにあらがっていることになる》。
 
北川朱実『三度のめしより』(思潮社)
日常を、体験を、記憶を、つまり生を、詩が補完する――じつはそんな途轍もないことがやわらかいエッセイ文体にさりげなく綴られている。ライトヴァース系の教養ゆたかな引用そのものにこれほど心を打たれた詩書は初めてだった。しかも鑑賞が引用詩篇にたいし換喩的になっている。たとえば松下育男「はずれる」にたいし書かれた文章なら以下。《飛行機雲を引いて横切っていたはずの旅客機が、よそ見した瞬間に消えたことがあった。動悸がするほど青い空は、もうひとつの空を隠している気配がしたが、半生が、ボートのように回転して、まっさらな時間があらわになったこの詩を読んで、ふいにあの空を思い出した。通過しなかった夏を思った》。
 
神山睦美『サクリファイス』(響文社)
書評集、講演記録集といえる構成なのだが、一気呵成に読ませる一貫性をもっていて、そのなかで拙著『換喩詩学』への言及が白熱の一部をなしている点を嬉しくおもった。それは換喩への思考がミメーシスへの思考へと神山のなかで連接されるためだ。神山思想の中心概念「共苦」は、離接を原理としていて、だからこそ時空間を自在に連接してゆく逆転も起こる。この意味でもともと彼の批評原理に換喩が作動していることになる。たとえば岩成達也の『レオナルドの船に関する断片補足』中の「皮膚病に犯されながら昇天していくマリア」はどう思考されているか。《マリアとは、すでにして死んでいるとしかいいようのない存在であり、だからこそ、そこにあらわれるのは、「激越な空疎」とそれゆえの「形骸としての奇蹟」にほかならない》。
 
大辻隆弘『近代短歌の範型』(六花書林)
伝統文法にあかるい当代きっての歌よみによる近代歌人論。詩の書き手は、大辻の一首考察における「辞」(助動詞、助詞)への繊細な着目に同意をおぼえずにはいない。助詞ならば構文内のズレの機能へもひろがっていて、そうした換喩性は何も現代詩のみの特権ではなく、伝統詩型が伏在させてきたものとわかるためだ。とりわけ斎藤茂吉、島木赤彦の読み方を教わったが(現代短歌では山中智恵子も)、大辻歌論は佐藤佐太郎といつも相性が良い。たとえばその一首《冬の日の晴れて葉の無き街路樹の篠懸は木肌うつくしき時》についてこう述べる。《「篠懸は」と来たのなら「木」といった名詞で歌い収めるのが普通なのだが、彼はそれを「時」という名詞に繋ぐことで意図的に文脈をずらしている〔…〕。〔…〕客観描写の油絵の上に、さらりと一刷き、時間感覚の上塗りをする》。
 
 
※久谷雉がツイッターで話題にしたが、つぎの「詩手帖」1月号から、一年間の「詩書月評」の担当となった。レイアウト変更の一回目なので原稿を書き上げてから字数が変わって書き直しを依頼されたり(しかも事前交渉ミスで取扱い対象についての錯誤も指摘された)、なにしろ送付されてくる詩集が大量だったりで、繙読と執筆作業にはものすごく疲労感をともなう。なんとか大過なく連載をつづけられればいいのだけど。
 
――積雪のうえに雨が降り、翌朝が0℃前後だと道がつるつるになる。最も滑りやすい状態。今日はそのなかを、あるきまわらなければならない。転んだら、久谷のせいだ
 
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