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2023年04月25日15:29

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古澤健監督『見たものの記録』

【古澤健監督『見たものの記録』】
 
「自主映画」では原理的な撮り方がなされる。結果、映画の通常原理が覆されることもある。観客のアイデンティティが深甚にゆらぐ。こういう条件の映画こそ傑作とよぶべきであって、5/12—6/2、下北沢トリウッドのイベント〈なんてこった異次元映画セレクション〉で上映される古澤健監督の自主映画の新作『見たものの記録』にはふかく感銘してしまった。古澤監督の労により配信でみせていただいたことに感謝します。
 
この映画には一筋縄でいかないところが数多くある。「タイムスリップ」「異次元移動」「それが長続きせずの一分前の世界への遡行」「その無限の繰り返し」「媒介となるブリーフ」など奇想を集中させ、古澤の郡山の洋品店の実家(廃業後)を舞台に、古澤自身の撮影と自写を繰り込んで始まった冒頭は、どう見積もっても、チープな感触の「私」映画にすぎない。それが、この古澤の発想をもとに、女子たち(何人いるのかが問題となる)がスタッフとして集められ、じっさい自主映画製作が進行してゆくとき、女子たちのようすを「いま誰が撮っているのか」という原理的な問題が浮上してくる。
 
すばらしいのが、彼女たちに干渉する古澤はほとんど常軌を逸しているとしかみえず、しかもその存在感が稀薄で、可視性の閾を消えかかったり再登場したりしてゆく点だ。このことに関わってギミック的な効果を発するのがディゾルヴで、不穏なノイズめいて使用されだしたその技法は、やがて深甚な恐怖と不条理へと接近してゆく。こうなって観客は、自分の観ている作品の「ジャンル」が不安定に移行している「この刻々」に動悸をおぼえざるをえなくなる。かつての古澤の友人宅(これも廃屋)、その玄関の楕円鏡の恐怖喚起力。何よりもひとり夜の留守居をする1スタッフ(彼女はストーカーに悩んでいる)を襲った「惨劇」が、具体的に起こったのか否かを、鑑賞の座標軸を狂わされた観客はいうことができない。ドラマ的なこの極点に、やがて古澤自身が介入してゆき、ともあれここがこの「映画を作る映画」のツボだったと(ほぼ事後認証的に)結論が出そうになる。
 
とはいえ、作品は女子たちの存在や仕種を伝える、現実的かつガーリーな「女の子映画」としても規定でき、とりわけ終盤幾つかの「象徴的大団円」の連鎖は、スケールがちがうにしても『8 1/2』のようですらある。古澤組参加の女子は暫時ふえ、5人として最終的に定着したと納得した途端、最終シーンで6人となり、古澤不在のまま、という印象で、雲と布をめぐる路上や公園での象徴劇を敢行する(このときに魔術めいた「マスク美人」化が起こる)。これを撮影しているのは蓋然的に古澤だが、最後に現れている最終的なひとりに弁別がつくのか。その彼女こそが、それまで古澤と女子たちの場面を撮影していたのではないか。観客はそうしてエンドクレジットに目を凝らすことになる。そして驚く。
 
ともあれ撮られることのなかった映画、その事実が映画として撮られてしまっている逆説、という点では、この映画は『軽蔑』『ことの次第』と倨傲な眷属関係を形成している。その倨傲もすばらしい。
 
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