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2021年02月23日21:37

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愚行録

  
ポーランド国立映画学校出身の石川慶監督による貫井徳郎原作の映画化『愚行録』(2017)は、石川慶という国際派監督の誕生を告げる画期的な作品だった。同じくポーランド国立映画学校の出身カメラマン、ピオトル・ニエミイスキの捉える、殺伐とした分譲地、あるいは高架が奥行に見える商店街の光景などでも、即時に意表を突いた非日本感性的な風景が現出する。銀残し的なグレーにくすんだ風景については、この作品の公開当時、熱狂的で素晴らしい評をネットに公表した荻野洋一がキェシロフスキ『殺人に関する短いフィルム』などとの類縁性を綴っているが、ドラマ構造からして、イーストウッドの『ミスティック・リバー』のトム・スターンの仕事もおもうべきかもしれない。同作のティム・ロビンスを本作の白昼夢のなかにいるような満島ひかりに見立てると、その兄の、基本的に表情を殺し、激情が発露する顔が隠される妻夫木聡が、ショーン・ペンとケヴィン・ベーコンの合体ともなる。『ミスティック・リバー』の、3=2+2+1、という不条理な数式(最後の+は−の間違いだった)は、本作では、2は常にバラバラな2のまま。それで崩壊感覚が終始継続する、加算記号のない不毛な羅列となる。その土台のもと妻夫木聡をめぐる案件Aと案件Bがバラバラのはずだったのに、それが一致しだす。このときのサスペンスが明示的演出ではなく、いわば奥行次元にゆれることが本作の真骨頂なのだろう。
 
拘置所面会室のガラス敷居越しに兄・妻夫木。彼と語りつつ「秘密」を共有していることを喜ぶ収容者の満島ひかり。それら兄妹の位置関係の分断によって、すでに暗に2が表象されている。満島は育児放棄をして、栄養失調からその娘を現在、集中治療状態に追い込み、裁判を控えている(その子どもの父親がだれかがのちに謎解きの主題のひとつになる)。妻夫木は週刊誌記者で、一家殺人事件の真相を事件発生一年後に追跡取材している。動機の捜査、知人の掘り起こし。死んだ夫(小出恵介)関係者と死んだ妻(松本若菜)関係者へのバラバラの対面取材が続く。画面上、犠牲者となったこの小出・松本夫婦は一体化されない。唯一例外の画面が、殺人者が明かされつつある段階で、その過去時制の殺人者がみる主観画面。そのときにも小出恵介がロングに位置していて、彼が彼とほぼ同定できない。
 
出だし、やや混雑しだしたバスの座席に座る妻夫木が、街のお節介な正義派オヤジから、通路に立つ、体の弱そうな老女に席を譲れと干渉され、席を立ったあと、その正義派にいかなる意趣返しをしたかで観客は一挙に掴まれる。開巻劈頭から正義に対する歪みが定位される驚愕(この冒頭シーンはラストシーンと逆さまに照応する)。これは、妻夫木の取材対象、眞島秀和(小出恵介の同僚だった)の述懐によっても連続的に補強される。いわば尻軽な女性社員・松本まりかを偏狭なホモソーシャル意識からいかに懲罰したかの歪んだ英雄物語がしるされてゆくのだ。
 
小出、眞島が早稲田を思わせる稲大(いなだい)出身と語られる一方で、小出の妻の松本若菜のほうは慶応を思わせる文応(ぶんおう)出身。こちらのほうは付属からのエスカレータ進学者と大学時の新規入学者のあいだに格差というよりもっと大きい階級差、カーストがあるとされ、階級上位者に美人ぶりによって自然に馴染む新規入学者として、松本若菜が存在している。大人しく、一見優雅に思われる彼女の笑顔に、ゾッとするような冷酷が隠されている。この松本の振舞いは、彼女と同様の大学からの新規の女子入学者の行動を混乱に陥れる。この作品の悪意は、表面の近さではなく、常に奥行に鈍くくぐもっている点に注意が要る。
 
『ミスティック・リバー』の最大の見所は、娘殺しを確信したショーン・ペンによるティム・ロビンスの処刑と、ケヴィン・ベーコンによる真犯人究明が並行モンタージュで描かれるときの運命論の軋みだろう。ラストタイムミニッツレスキューと正反対の、しかも同様にサスペンスフルなパラレルモンタージュは、時間の救済性ではなく、自壊性を劇的に画面に刻印した。バラバラの2を志向する『愚行録』でも並行モンタージュに近づく詳細があるが、それが不全性をかたどる点に映画の新規性が賭けられている。妻夫木は松本若菜のカースト上昇欲望の傍観者だった臼田あさ美を取材する。そして学生当時、その臼田と恋人で、松本と二股交際した中村倫也にも関連取材をする。やがて自分たちの往時を語る臼田、中村のようすが短くカットバックされることで、並行性が出現する。それはやがて真実判明の段階で起こるだろう満島ひかりと妻夫木聡の姿の悪夢のような並行モンタージュの前哨となるべきだったが、その実現は半分成就され、半分は不全という印象になる。代わりに精神鑑定中の満島ひかりがカウンセラー平田満の不在の際に、架空非在の誰かに向かって、自らを語る圧倒的なモノローグシーンに換喩的にズレてゆくのだ。
 
この映画はミステリとしては謎解きの構造が弱いという指摘を受けるだろう。人物の行動ではなく、物語自体が代行的越権的に謎解きをおこなってしまうこと、さらには一家殺人事件の真相を知るのが弁護士の濱田マリではなく主に観客だけになってしまう作品構造も問題視されるかもしれない。しかも殺人を犯した者に報いが来ない中間態のまま作品が終わる気配が濃厚でもある(『ミスティック・リバー』も同様に中間態で終わるが、そこに真相が川から全世界へ浸潤してくる圧倒的な動勢を付帯させていた)。ディテールの重層性がふたつの作品では違う。『蜜蜂と遠雷』でもそうだったが、石川慶は原作小説への態度が恬淡で、そのエッセンスを限定的に捉え、そこに映画性を代置嵌入させる傾きがつよい(本作の脚本は石川慶自身ではなく、山下敦弘映画で知られる向井康介)。原作の全体性と、映画の全体性を拮抗させるのではなく、原作を刈り込むことで、映画の独自的な形象を作り上げるといっていい。おそらくそれで貫井原作にあったミステリ性が減殺された。だが代わりに出現したものがある。『ミスティック・リバー』に存在した完璧な悪意の並行モンタージュを、兆候として不完全に奥行化する果敢な意欲がそれだった。これが本作の「映画のアレゴリー」の本質。その空隙地帯に、忘れがたい満島ひかりのモノローグが白く浸潤してきたのだ。顔が映っているのに空舞台のように錯視されたその一連の異様さに、鳥肌を立てぬ者はいないだろう。
 
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