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2021年02月16日20:16

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蜜蜂と遠雷

 
映画化不能といわれた恩田陸のベストセラー同題小説を新鋭・石川慶が監督した(脚本と編集も)『蜜蜂と遠雷』(2019)は、幾何学的とも形容できる緻密な構成と単位加算で一面、冷徹さを誇りながら、語らない人物たちの言外からゆたかな情感があふれだす。シャープなのにやわらかい、得難い組成。冷静と熱狂。ポーランドで映画を学んだ石川監督の盟友ピオトル・ニエシイスキのキャメラとの協働ぶりも奇蹟的だ(Bカメは芦澤明子)。だがこの映画で何が起こっているのかをいうのはとても難しい。
 
作品舞台は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の開催されている音楽ホール内にほぼ絞られる。しかも一次予選、二次予選、本選が規律的に描かれるだけだ。一次予選ではピアノ演奏の描写が割愛され、四人の主要人物に付帯的に焦点が当てられてゆく。七年前、天才ピアノ少女と謳われながらコンクールの壇上から逃走したわずか20歳にしての挫折者・松岡茉優。民間で研鑽を積みピアノ演奏に向け素朴で情感あふれるアプローチをする、出場年齢上限の松坂桃李。松岡と幼馴染ながら海外で英才教育を受け、華々しい雰囲気で19歳ながらすでに一般ファンも摑んでいる森崎ウィン。家族とともに流浪生活を続け、鍵盤模型だけでピアノに向きあってきた天真爛漫でいかにも神童めいた(演奏の姿も破天荒な)まだ16歳の鈴鹿央士(新人)。人物たちのことばは僅少だが映像は雄弁で、とりわけ、松岡と松坂の演奏時には、回想が侵入してくる。あるいは四人の人物間のそれぞれの会話により、ピアノアプローチに関わる何かの情報も補足される。象徴的なタイトルの意味さえわかる。世界音楽=ムジカ・ムンディ。もともと世界は音楽にあふれている。水平線のうえの遠雷はその可視化状態だ(あるいは繰り返される雨だれも)。蜜蜂たる音楽家は音楽の蜜をあつめ、ひとの耳にとどけ、ひとの心をふるわせる選ばれた媒介者だった。
 
「矩形」が作中にみちあふれていると気づく。鏡、額縁、窓、扉の開口部、写真パネル、音楽ホール全体の外景、〔松坂桃李の実家の障子〕…むろん矩形連鎖の集約的結晶体がピアノの鍵盤だろう。それらはクラシック音楽のもつ息詰まる規律性とも関わっている。ピアノを弾く俳優たちもその規律のなかにいる。それぞれの役柄の個性に合わせた演奏がプロのピアノ演奏家によってなされ、それをプレスコにし、おそらくはそのプロの演奏家の指や全身の動作が俳優によって再生産されているのだ。監督石川慶のアプローチは当初、伝統的かと映る。俳優たちが演奏するピアノ前の全身をマスターショットとして提示したのちは、顔(俳優)と指(演奏家による吹き替え)に分断するカットが繰り返されるとおもわせるのだ。ところが指の寄り画からティルトアップして俳優の顔が写るとき俳優演技に衝撃的な信憑が灯る。演奏シーンの個々のフレーミングに動悸に値する驚愕があたえられてゆく。同時に、映画の単位はフレームだという原理の確認が起こるのだ。ピアノ奏者を「演ずる」俳優は実際に高度に音楽化されている。カット個々に真/偽が明滅し、それが細かく縫合されている。そうして撮影の苦心が垣間みえるはずなのに、演奏における「音の力」によって真/偽すらもが脱分節化へ導かれてゆく。そう、この映画の「音楽」は「溶融」を是としている。
 
二次予選では、宮沢賢治『春と修羅』からインスパイアされたピアノ独奏曲が課題となる。しかも課題では、作曲されている本体部分に長いカデンツァ(技巧的な即興)を足して演奏を終えよという条件が付される。本体→カデンツァは「移行」を身体化しろということ。松坂桃李は岩手在住も手伝ってか、『春と修羅』の最高の情感は「永訣の朝」中の瀕死の病床のトシが兄・賢治に向けた(あめゆじゆとてちてけんじや)=「雨雪を取って来てちょうだい」だと見抜く。この詩篇細部もまた、身体の切なく運命的な移行要請なのだから、カデンツァを添えよという命題と同調するだろう。
 
松岡はもともと幼少期、母親とのピアノ連弾により、「世界音楽」と即興的に同調する歓びをあたえられていた。彼女は松坂のカデンツァ演奏の一節を聴き(そこがたぶん「あめゆじゆ…」の情感を「作曲」培養したものだ)、自分のカデンツァ即興の着想を摑む。実際に鍵盤に指を置いて確認したい。ところが音楽ホールの練習場がふさがっている。それで松坂の紹介する楽器工場に赴き、そこの古めかしいピアノで着想を確認しようとすると、「神童」鈴鹿が闖入する。鈴鹿もおなじく松坂のカデンツァから何かのインスパイアを得たのだ。ところが窓の向こうには満月。自然にふたりは月を主題にした連弾に入る。ドビュッシー「月の光」→ハロルド・アーレン「イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン」→ベートーベン「月光」。それぞれの曲間に即興があふれる。もともと松坂のカデンツァが自分たちのカデンツァの着想に「伝播」した。そして連弾はふたつならぶ身体(そこではからだが触れ合っているし、ときには腕が交錯する)そのものが伝播の実体化ともいえる。
 
松岡が二次予選で、『春と修羅』+カデンツァに挑むくだりが素晴らしい。壇上のピアノに近づくようすは舞台袖から前進移動で捉えられ、とうとう正装ドレスの背中の開きをカメラが注視する。そこでボディが黒光りするグランドピアノが楽器であると同時に幻惑的な鏡体でもあることが導かれる。鍵盤蓋の裏には「事実」に反し、ふたりぶんの手が映る。いまの松岡茉優の鏡像ではないのは確かだ。カットが重ねられると、ピアノの屋根の裏に幼女時代の松岡と、その母親の連弾する姿が映っている。画角を緻密に調整した合成にすぎないが、それでピアノが時間そのものの溶融契機になる驚異がしるされる。
 
本選で、ピアノ協奏曲が課題となり、オーケストラの指揮者に鹿賀丈史が登場するに及び別の感動が生ずる。ピアニストと指揮棒間の安易な伝播を拒む倨傲な完璧主義者。本選に残った松岡、森崎、鈴鹿は試練の渦中に入る。詳細は記さないが、俳優たち、とりわけ演奏中の松岡が鹿賀のほうをみやる横目が、真摯で瞬間的なのが、ショートボブの側髪のゆれ、エクスタシーとまごう表情の激しさと相俟って観客を泣かせるだろう。横目は基本的に狡猾を印象させるが、激しさのなかの速い横目は「表情の危機」のなかで救助を訴えるひかりのように半分溺れてみえるのだ。ところがそれが同調と確認と信頼の信号だと意味的に是正される。松岡茉優の眼はそれができる。ショートボブの乱れ、ほつれも素晴らしい。「性」はそうした極点に刻印されている。
 
矩形が満載されていると書いた。ピアノ演奏を「演ずる」俳優たちの指はたとえそれが振り上げられても、演奏終了までは鍵盤の矩形重畳に縛られる。演奏家として画面に存在しなければならない彼らは被虐的なまでの重圧のなかにいる。ところが矩形が存在しない場面がある。冒頭の雨だれ。雨中の馬のまぼろし(『アメリカン・スナイパー』の一場面をおもいだした)。閑暇を得て演奏者たちがゆく砂浜。渚から遠望される水平線上の遠雷。さらには、一旦本選からの逃亡を企て、地下駐車場を急ぐ松岡茉優がみた、出口を塞ぐようにある(水の落下に晒された)グランドピアノの遠景。それらどこにも矩形要素のない画がすべてムジカ・ムンディの分泌の場所としてある。反ピアノ的な源泉。作劇的には松岡が最もムジカ・ムンディに親和的だ。その松岡が実母の死、コンクール逃亡後から「今」までの七年間、何をしていたのか、ピアノとどう向き合っていたのかが作中、一切語られない。それは、ムジカ・ムンディの本質が「空白」であることと関わっているだろう。
 
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