mixiユーザー(id:163513)

2019年03月25日02:16

98 view

運び屋

 
クリント・イーストウッド監督主演『運び屋』は朝鮮戦争退役軍人世代で、「男」を貫いた類型の、現在生存中ならという条件付きでその寒々しい孤独と、悔悛後のほんの少しの光明を描いた、恐ろしい映画だった。花作りに情熱を注いだあまり家族の大事な記念日にことごとく非礼を尽くし、家族から見放され、インターネットの花販売の影響で花農場を倒産までさせた90歳老人というのがイーストウッドの演じる主人公だが、彼は『グラン・トリノ』のイーストウッドの延長線上にそのまま存在しているようにも見える(あちらはモン族が民族的な混成要素だったが、今回はヒスパニック=メキシカン)。だから運び=移送を任務にしだしても、『ガントレット』のイーストウッドよりも格段と孤独に見える。イーストウッドは最後、家族に詫びる機会を得、また刑にも服することになるのだが、このときの「悔恨」テーマの深さは90年代前半の彼の監督作を髣髴とさせた。ただしあの時はイーストウッドの顔の皺の深さが悔恨と釣り合っていたが、本作ではイーストウッドの老いた体全体が悔恨を体現していて、慄然とさせる。たぶん今作のイーストウッドは若い頃に比べ身長が20センチていど縮んでみえる。共演女優に背の高いひとを配しているのだ。足元もよろよろにしている。本作のイーストウッドがジェームス・スチュアートに似ているというギャグが出てくるが、むろんこれほど老いを凄絶に晒したハリウッドスターは数えるほどしかいない(それでもイーストウッドはとてもうつくしい)。どのような因果関係かはっきりさせずに、クライマックス近く、黒いトラックの運転席のイーストウッドが、頭からの出血により、ゆっくりと顔に血流の筋を作り上げるのは、老いた肉はその醜さにより己を恥じて出血するという啓示だったのだろうか。とはいえ家族に疎まれたあと、自然に運び屋稼業に手を染めてゆく冒頭の描写の物語効率の高さ、運び屋過程での寄り道の予測不能な破天荒ぶり、さらにはいよいよ問題の運び屋の照準が定まったあとでのクライムサスペンスぶりは30年代からのアメリカ映画の王道を行く。それに見事にロードムービー性まで絡んでいるのだから脱帽のほかはない。なんと成熟した語りだろう。イーストウッドは自身の老齢化を讃美しているわけではない。「100歳まで生きたいのは99歳になった老人だけだ」という恐ろしい科白すらあるのだ。いずれにせよ、アニバーサリー、老齢化、一日だけ咲くリリー、運びの回数表示、苦痛の数十年の前にあった幸福な十年、カネと時間の関係など、作中には重層的に「時間」がテーマづけられている。再見したときはこの主題が映画的にどう昇華されているかに注意が払われるだろう。ちなみに本作は実在事件から着想されている。それと、アンディ・ガルシアが出ていたことに、クレジットで気がついた。3月19日、丸の内ピカデリーにて鑑賞。
 
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年03月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31