mixiユーザー(id:163513)

2018年09月09日09:47

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やっぱりメモしておこう

 
【やっぱりメモしておこう】
 
外観的に酷似するふたりが相互に代替性をおびうるかという問題を、濱口竜介監督『寝ても覚めても』は、別次元へと飛躍させた。それは奔放な麦〔ばく〕と、実直な亮平の二役を演じる東出昌大にたいし、朝子がとるリアクションによってしめされた。おおきくいえば酷似性が刻印されたまま、代替性が決定的に無化されてゆくのだ。なのに「麦じゃん」という朝子のつぶやきは耳にのこりつづける。映画がしるした諸段階をふりかえると、どの局面の朝子=唐田えりかも、他者の配剤がどのように順番化されるかにたぶん世界法則をみていて、それが世界の奥行きにたいし不可知的な有機性を揺曳させるときにのみ、対象を全肯定してしまう、神秘主義的な諦観者なのではないだろうかとおもわせる。彼女は対象に批評が可能なときは単にそうするだけだが、批評性をこえるときには対象に自らを預けてしまう。遅延と唐突の弁別をゆるさないヒロインだが、彼女がたえず「視ている」者だという畏れはつたわってくる。この行動規範を観客に、科白の説明なしにつたえるのは至難のはずだが、濱口監督は、唐田とふたりの東出との、位置関係、動作生起、相互作用を、すべて適確な画角、距離、構図、周囲環境、ショット持続から刻刻と記録してゆく。朝子を基準にすれば、麦の失踪、亮平との戸惑いつつもあるゆっくりとした交情成立(麦失踪の二年後)、麦の再出現(さらにその五年後)と結果としての心変わりは、自ら信奉する世界法則に殉じた者の痛ましさをしるしつづける。運命に翻弄されたというドラマ的次元、道義的非難の次元は越えられ、内在問題がただ外形的に生起しているのだ。このことが演出的なすごさだった。
 
当初あった、牛腸茂雄写真展、爆竹、友人、扉、喫煙に使用される外階段といったアフォーダンス的な外界刺戟要素は、やがては原理的なものに巧みに配剤を替えられる。川、クルマの運転席と助手席の同乗関係、東日本大震災後につくられた防波堤、土手の道などに。並びうる場所、遮るもの、流れをつくりうるものに分離された世界で、朝子は亮平と暮らすはずだった関西の家屋の周辺で「いるはずのない白い飼い猫」を、名を呼んで探し続ける。それがとつぜん、半分閉じられた扉ごしに白猫を突きつけられるアクションに決着する。亮平の朝子にたいする、それまでの懲罰が明瞭になった惨い瞬間のはずなのに、そこには「試練→判明」という融解順序、あるいは懲罰対象が朝子から亮平自身へと拡大する空間順序が一瞬で確立され、それがあの圧倒的なラストショットを「おずおずと、しかも迅速に」用意するのだ。諦観と希望が綯交ぜになった終景というべきではないだろう。あらゆる順序が無化され、細部が一様化した別次元の何かがそこに現れたのだ。並んでいて、遮られていて、なおかつ流れをつくっている遠さのある屹立がそこにあった。このことのために用意された正面性。気づけばそれまでは映画は二人物を横から捉える生々しいショットを数々展開し、最初のクライマックス、ふたりの東出が一画面に収まる大仕掛けのあと、東出→東出の、ショット/リバースショットの切り返しを、ただ一回の映画的蠱惑として例外化していただけだった。けれどもふりかえれば、それ以外の各ショットの現実的な運用こそが、実際は世界法則の例外だったことがラストシーンから遡行的に判明してしまう。朝子のいること/いたことの決定性。みたことのない映画という感慨はそこからうまれたのだった。
 
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