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2017年12月23日17:58

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ヘヴンズストーリー

 
瀬々敬久『ヘヴンズストーリー』をたぶん八年ぶりくらいに観返した。八年前はアテネフランセでの公開前上映会に行って、そのあとユーロスペースでの公開に行けず、その後の定期上映にも北海道に居住地が移ったため縁がもてず、とうとう実現されたDVD化により、ようやくDVD鑑賞となった次第だった(アテネ定期上映での壇上トークにも誘われたのだが、道内にいてタイミングが合わなかった)。
 
自分のことになるが、八年前の上映時は体調がわるく、四時間二〇分の上映でからだが硬直してしまったのをおぼえている。その結果いだいた感想は――瀬々はピンク映画であれば1テーマ1作品の枠組で簡勁に映画をつくりあげてきたが、この作品はピンク映画の演出機会が減ったためある種の蓄積肥大を起こし、一本のなかに数本の映画がはいっている、その状態がくるしい――というものだった。今回、観直してみて、その悠揚迫らぬ堂々たる組成におどろいた。自分のほうが不明だったのだ。
 
未成年者に自分の妻子をころされ、犯人に極刑を、とつよく主張した山口県光市の被害者家族の夫(父親)の事件が映画の最初の発想源になっている。映画での父親は長谷川朝晴(大好きな俳優だ)、犯人が釈放されたのちにかならずころす、だから無期懲役をむしろ望まないと昂然と取材カメラの前で言い放つ。自分の両親と姉を殺されていたが犯人が死んだため復讐対象が存在しない少女・寉岡萌希(ただしこの時点では子役)がTV画面の長谷川を偶像視する。これが天秤でいえば片方の腕。
 
もう片方は後半(休憩後の第二部というべきもの)に顕在化する。当該犯人が釈放後の社会復帰をひそかに果たす。忍成修吾がこれを好演。酒鬼薔薇=「その後の少年A」ともいうべき立場だが、映画はちがう。彼は獄中にいたときの手紙のやりとりから若年性アルツハイマーで認知能力を失う過程にいた人形作家の山崎ハコの養子になる(すこし万田邦敏『接吻』=宅間守をおもわせる)。それで社会復帰後は認知能力を失ったハコの介護をしいられる、くるしい不如意のなかにいる。いつしか復讐の念がきえ、菜葉菜と幸福な家庭を営んでいた長谷川に、寉岡が復讐を全うしてほしいと要請する――これが260分にわたる物語の主軸だが、実際はこの天秤の両腕を、警官であやしい金稼ぎをする村上淳がふくざつに刺繍する。それで短い字数ではとても要約不能な物語の全体となる(ここではそれを詳述しない)。
 
もちろん上の書き方は誤っている。作品は計九章にやわらかく分割された全体をもつが、その中盤まではそれまで語られたこととは無関係に――つまりジャンプカット的にあらたな章が開始され、やがて章のなかに現れるどれかの人物に、それまでの章の人物との「運命の結び目」がゆるやかに「判明」してゆく手順がとられる。あるいは「場所」が間歇をはさんでとつぜんつながることにもなる(佐藤浩市−村上淳のシチュエーション=北国の廃鉱集合団地が、忍成と山崎ハコの道行きの地として召喚されるなど)。これらは音楽でいう一種のメインテーマ回帰だ。誰と(異系列の)誰が出会うのか、それでこれほど動悸をおぼえさせる映画はなかなかない。いずれにせよ綜合性にたいし理解はたえず間接的にすすむ。その「判明」がにぶい襲撃をつねに加算していって、作品の悠々たるテンポに観客はもってゆかれ、作品の「時間性」にやわらかく支配されることになる。同時にいつしか、題名中の「ヘヴン」に、監督の瀬々、脚本の佐藤有記が何を仕込んでいるのかを付帯的にかんがえるようにもなる。
 
瀬々は『終わらないセックス』などの回転性のように、仏教的な極楽観の印象がつよい。ところがこの映画の死後や永遠は、極楽的ともヘヴン的とも同時にいえるものなのではないか。「運命の結び目」が現れると、運命上の「対立」が一旦はあらわになる。ところがなにか強力な抽象化や蒸留や発酵が起こり、対立二項は相殺され両者がきえ、両者をむすぶ天秤だけがのこる気色となるのだ。その天秤こそがやわらかく充満し、この世の出会いにつねに作用しつづける――これが『ヘヴンズストーリー』の「ヘヴン=上方」なのではないか。「ヘヴン」といわれれば稲川方人の詩集『2000光年のコノテーション』、そのブルーな、アメリカの果ての、なにもない、しかもなおアメリカの映像が香っているあの「ヘヴン」をおもう向きが多いとおもうが、いったんは忍成修吾の科白により、「雲上の炭鉱」に築かれるべき約束の地を類推させたヘヴンは、いわば入不二基義的な「運命の結び目」、それだけの、しかも量感があって透明な模様へとさらに変貌してゆくのだ。なにかをあらしめるための潜勢力そのものが天上化されているといってよい(それを、のぎすみこが指さす)。だから最終章で「すでに死んだ者」「自らの過去」が画面の現在に混入してゆくことにもなる。その演出は少々感傷的だが。
 
物語の語り口よりも「運命の結び目」のほうが衝撃的に顕在化する映画にはエドワード・ヤンの『恐怖分子』があった。四時間超えの悠々たるリズムと時間性により、世界の肌理そのものに迫る映画にはおなじくヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』があった。瀬々はこの「運命の結び目」を悠々とえがく『ヘヴンズストーリー』において、それらを自分なりに合体しようとしたのではないか。ヤンの俳優たちが役柄を超えた「ただの存在」として画面に現れたようなことは、『ヘヴンズストーリー』の俳優たちにも多く起こっている。髪型の変化ひとつとっても俳優たちに「時間」の澱の累積があるのだ。
 
それは季節と場所をまたがり、俳優群が章ごとに局在化するため一年半の長丁場にわたった撮影条件とも関連している。なんとカメラマンは、鍋島淳裕、斉藤幸一、花村也寸志の三人共同名義だった。拘束期間が長すぎてスタッフを一定化できない現場で、集中を切らせることのなかった瀬々はさぞや孤独をしいられたとおもう。結果、子役にちかい出演者の表情に「成長」さえ刻まれることにもなった。手持ちでゆれる映像、それをこまかくつなぐことで刻まれる、世界の現れの不安定な複数性。全体のpaleな色調。「鳥」はアニメイトまでされて映画の空=ヘヴンを飛ぶ。百鬼どんどろ=岡本芳一の導入による、映画の「部分」の、キメラ的寓意化もある。それをみて泣く山崎ハコは、『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナのようだ。
 
瀬々ファンとしてはなによりも「犯罪」を主軸に置いた十八番のつくりになっているのがうれしい。犯罪の渦中・事後、それにたいし瀬々の想像力が発動したとき、「時間の孤独」(これはゴダール的なものだ)が発現され、それが詩的な昇華と同時に散文的に重たい不恰好をも湛えるのだ。これが瀬々映画の最大の特質だ。終盤の長谷川と忍成の対峙と展開に、身体的な感動をおぼえない観客はいないだろう。それと、これまた十八番、風景の召喚力。瀬々映画では「廃墟」「疎外された風景=棄景」はトレードマークだが、そこに「霧」(『すけべてんこもり』)、海=水(『HYSTERIC』)、集合住宅などがさらにここで接続する。江口のりこの住むアパートと、その外延などには息を飲んだ。それと高架電線にも。「風景論の作家」と瀬々はいわれ、筆者自身もそう語ってきたが、注意すべきはそれが松田政男の提示した範疇におさまらない点だ。とりあえず隣接ジャンルとしての写真をかんがえてみればいい。「PROVOKE」派の写真家から佐内正史まで、瀬々の美意識は長い線分をえがき、写真を超えようとしている(江口のりこの出産シーンは、大橋仁的でもあったが)。
 
ところで瀬々の映画美学校での教え子で、瀬々『ユダ』から瀬々の共同脚本家となった佐藤有記は、この『ヘヴンズストーリー』で大輪の花を咲かせた2010年ののち、ネット上のフィルモグラフィにその記録が現れない。これはなぜなのだろうか。
 
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