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2017年12月21日01:40

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瀬々敬久・8年越しの花嫁

 
【瀬々敬久監督『8年越しの花嫁・奇跡の実話』】
 
いわゆる商業映画を撮るときの瀬々敬久監督の念願は、「どこまで透明になるか」ということではないか。YouTube映像や番組「奇跡体験!アンビリーバボー」、さらには書籍化でも話題となった、卵巣腫瘍によって生じた抗体により脳に異変をきたし記憶障害をのこした花嫁と、「記憶」問題を克服、ついに彼女との結婚を果たした花婿の「実話」をえがくにあたり、瀬々監督が中心に置いたのは、説話のリズムをどのように組織するかだった。「泣ける」と評判のこの映画では、終盤の音楽的な情動が、みごとな透明性を発現している。
 
岡山・小豆島での実話を、そのまま当地で撮る。瀬々監督とかつては霊的兄弟といわれるほどのコンビネーションを発揮したカメラマンの斉藤幸一は、この作品では地霊(ガイスト)の揺曳などに頓着しない。絶景主義も瀬々−斉藤コンビにはもともとない。観終わって、景観として印象にのこったのが、主演カップル、佐藤健と土屋太鳳が初めて親密に接近する、アーケード街の先の、夜の市電停留所くらいしかないという徹底ぶりだ。居酒屋での合コンの席でつまらなさそうに打ち解けずにいる佐藤を、とおい席から見ていた土屋が、一次会が果てたあと、合コンに出ている義務を果たせと詰め寄り、佐藤が腹痛をおして臨席していたと告白、土屋が平謝りし、いったん離れてからも腹痛軽減のための携帯カイロを渡す(しかも佐藤の乗った市電を走って追う)、今時の恋愛発端とはおもえないシーンだった。
 
ふたりは婚約する。夜の高台。土屋のしている指輪をみせて、と佐藤がいったんその指輪を抜き取り、返すときに婚約指輪にすりかえるトリックに土屋がなかなか気づかず、彼女のリアクションに生じるヘンな間がかえって生々しいなど、ふたりの交情成立過程にも見どころがあるが、映画に流動の芯がはいるのは、ふたりで行った愉しいはずの婚前旅行(それらは滝など景勝地の映像として佐藤の手許に写真化されている)を土屋演ずる麻衣がいっさい憶えていないと恐慌をきたし、やがては佐藤ふんする尚志と病院に向かう途中で深甚な頭痛にのたうちまわる急転直下部分からだ。コンテンポラリーダンスの才能でも知られる土屋の痙攣動作の迫力もすさまじいが、やがて入院して昏睡状態がつづくくだりでの顔の変型とむくみが、いわゆる「やつし」の域を超え、直視できないほど凄惨なリアリズムとして迫ってくるとき、とりあえずこの作品が「顔の映画」として配剤されている、という理解が生じる。顔が変型からやがて土屋が入院529日目に目覚め、もとの美的秩序を恢復するまでが、律儀な日付テロップと相まって、無調から調性へといったように、音楽的な彎曲をなすのだった。
 
恋人の異変にも臆することなく一途に看病と見守り、温かい身体接触で励ます佐藤の姿は単調と映りかねないが、そのあたりは実話に基づいているだけなのだろう。ゼロ年代の純愛のあかしとしてケータイ電話、自撮りなどが駆使され、佐藤は土屋と自分の姿、あるいは自分だけの日常、「クルマいじりが趣味でクルマいじりを仕事にした」生での同僚との交情などをいわば短い映像日誌として、意識恢復をみない段階での土屋のケータイに動画メールしつづける(これがのちの伏線となる)。
 
一途だった佐藤にドラマ上の試練があたえられる。土屋が意識恢復したのち家族(母が薬師丸ひろ子、父が杉本哲太)などの記憶も取り戻されるが、佐藤の記憶が再形成にいたらない。土屋は「学習」により、伝え聞いた佐藤とのエピソードを不自然に身体装着しようと奮闘している。1555日目にようやく土屋が退院にいたるまえ、意識恢復が見込めない段階でも、婚約者にすぎず「家族」の共同体責任をおわない佐藤は、土屋のそばにいさせてほしいと懇願、職務をやりくりし、遠隔地での見舞いに日々駆けつけていたが、意識を戻しても佐藤の記憶だけが土屋に戻らない。換言すれば、馴染みない「他者」が婚約者の特権で眼前にいつづけ、愛が伝承されてもその自覚のない土屋には違和感と苦衷があるはずだ。それを土屋の表情から汲みとり、とうとう佐藤は別れを土屋とその家族に切りだす。このときの存在の翳りが佐藤の存在を一気にうつくしいものにかえる。黙ったまま佇み、やがて消える者へ――この変転もまた音楽的な彎曲といえる。
 
土屋と別れ小豆島に仕事場を替え、クルマの修理作業に精をだしながら隠遁生活をみずからに課していた佐藤にたいし、土屋じしんは衰えた歩行機能を恢復させようと懸命なリハビリテーションに努めていた(彼女の美的秩序はすでにその顔に復活している)。このとき「部分的」な記憶の恩寵が到来する。「なぜか」街なかの結婚式場の、階段によってしつらえられたロマンチックなエントランスに車椅子の彼女はふと心ひかれる。そのようすを中村ゆり演ずる黒スーツ姿のウェディング・プランナーがみとめ、病気からの復帰を祝う。自らを知っている、自分では知らない他者。いわば佐藤を純粋化した存在。このとき土屋の意識の戻らない状態でも佐藤と土屋の出会った日付に、当初の予定を繰り返すように佐藤が毎年、結婚式の予約を入れていた事実を知る。
 
この日づけこそが土屋が開けずに手許に残していたケータイを開くための四桁数値のはずだった。そう直観した彼女がその数値を入力すると、「かつて」点綴的にしめされていた佐藤の映像日誌送付の様相が「いま」「そこに」続々と復活してくる。映像の波状攻撃。記憶とよばれるものが映像との近似値をどうしようもなくもっていること、それじたいが非親和であってもその連鎖性に親密感のあること、それはひとを「襲い」すらすること――実際は映像哲学に属するそれらが、ドラマのなかに哲学性を誇示することなく配剤されている。観客はこのあたりで涙腺を刺戟されつつ画面の推移を、息をのんで見守るしかない。
 
車椅子を操る不如意な状態の土屋が、単身、岡山からの乗船での小豆島行を決意する。父親・杉本哲太の心配をよそに、かつて佐藤に「あなたは家族ではない(だから娘の悲劇を共同体成員として真に受け入れることはできない)」と冷徹に言い放った薬師丸ひろ子が、「単身で行くことに意義がある」と語りきったとき、それもまた音楽的変転といえるだろう(悔悛の場面にも似て泣けるのだ)。ついに小豆島にたどりついた土屋は、公園で地元の子供たちのためにブランコを直していた佐藤を気づかれずに遠望する。佐藤が気づかないまでの間。車椅子で空間の空白にいる土屋は、遠景でとらえられるからこそその孤独がうつくしい。やがて佐藤が気づく。駆け寄ろうとすると、それを土屋が制止、自分から近づくといい、やがて佐藤の至近にたどりつくと、今度は佐藤が歩いてごらん、と試練をあたえ、彼女を車椅子から抱きかかえる。全身抱擁にちかい恰好。それで気づく。手やゆびの接触までに描写をとどめられていたカップルの身体相は、ここにいたり、全身化=全面化したのだと。これもまた音楽的増幅といえるものだ。
 
この音楽的増幅はドラマにおける「記憶の主題」を変成・補強させる。あなたとの愛の記憶がもどらないのなら、「愛のない」タブララサ状態から「愛しなおす」矛盾こそを自らへの倫理とする――抽象化すればそのような意味を生むことばを土屋は語りきる。それで記憶以外のものがあふれだすようになる。むろん泣けるのだが、記憶はそれじたいが全開ではない、逆にすべて閉じられたままのときは近似値として日々の積み重ねに、記憶と同等の「同一化」の恩寵を転位させるしかない、という考察さえかたられているのだ。ひとつがないことで、「ほか」があふれる。ふたりはとうとう結婚の誓いを「立て直す」。
 
直後、映画タイトル「8年越しの花嫁」がそのままテロップされ、一気にジャンプカットで結婚式映像に移る「タイミング」こそが、音楽性が音楽性をもって観客を泣かす透明な機能を負っているとわかる。このとき結婚式の演出を仕切っているはずの中村ゆりのプランナーが控えめにスタッフとして臨席している。観客は確信する。「8年」の時間は結果的には変転の連続だったが、無変化の定点が同時に刻まれていて、その極点こそが中村ゆりだったと。定点が人間のかたちをし、しかも傍観者の役割でいる世上の事実にこそ、最も泣かされた。「実話」売りをしているかのような本作にはそんな立体構造があったのだが、むろんそれには脚本の岡田恵和の貢献もおおきいだろう。
 
――12月20日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞。大量に詰めかけていた女性客が途中からハンカチを握りしめ、目を泣きはらしているのを横目でみて、瀬々監督の勝利を確認した。ほかの「実話」映画のロマンティシズムとことなり、本作はすべて「ありえる映像」で峻厳に構成されている。
 
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