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2017年12月13日18:12

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マーサ・ナカムラ『狸の匣』下

 
(承前)
 
冒頭詩篇「犬のフーツク」をみよう。その一聯・二聯――
 
疎開先が決まったのは、一九四四年の六月だったと思う。
埼玉県秩父郡の小鹿野村への疎開希望を問う回覧板が届き、私が覗いたときに
は、すでに「吉田」の欄に鉛筆の丸印があった。
 
私は初めて汽車に乗った。
受け入れ先の寺の前に一列に並んで、三年生の吉田みどりです、と名前を告げ
たとき、中年の女性(住職の妻か、近所の方だと思う)が大柄な筆を生き物の
如くうごかして、「吉田という名字、縦に書くと「喜」という漢字に似てるね」
と言ってくれたのが大変嬉しかった。
 
戦前の「時間と具体性」を提示されて、作者マーサ・ナカムラの年齢をかんがえれば、この自叙の形式による穏やかな散文体は、「小説の書き出し」という判断に落ち着くしかない。そう読めばいいものを、詩作経験者たちの好事家的な読みはおそらくそうしない。「疎開先」「一九四四年」「回覧板」といった時代色ある小道具を仕掛けだとかんじてわらい、「マーサ・ナカムラ」という謎めいた筆名をもつ作者の詩中の自称「吉田みどり」のネーミングの地味な絶妙さに膝を打ち、「吉田」を縦書きすると「喜」にみえる、の詳細には、圧縮による錯視という詩法上の実験が自己言及的に仕込まれているのではないかと緊張へみちびかれる。ただし散文の枠にまもられた時空変転・叙述変転のおだやかさは紛れもなく、「三年生」(尋常小学校三年でいいのか)女児のもつ素直さにすこしゆれそうになる。
 
三聯は二聯の舞台となった「鳳林寺」、その周囲の地勢説明でやはり小説体。そうした堅牢な穏やかさを踏まえて、四聯を読みだすと、叙述が自走して逸脱を犯す渦中に読者が置かれる。ここでの正しい応接は「わらうこと」ではないかとおもう。それまでの語調に騙された失点回復は、笑いによってのみなされるためだ。ただし、逸脱は内容面に集中し、叙述の形式が「詩的に」みだれるわけではない。その四聯――
 
山に繋がる木々の間で、寺の方を見ている緑色の爺さんがいる。
初めて見つけたのは、外に出られない雨の日で、随分小さいお爺さんだなあと
眺めていた。
彼は漬け物石くらいの高さしかないようだ。
身じろぎせず、にこにこと笑いながら木々と草の間から見ている。
寺の硝子戸の中にいるときには見えるのに、近づいていくと消えてしまう。
見失ってしまうのだろうと言って、友だちを硝子戸の中で見張らせて、走って
向かっていったこともあったが、やはり見えなくなってしまった。
「下、下」と友だちが合図しているのは見えたが、遠く離れた友だちの顔がの
っぺらぼうになっていた。
 
一寸法師やコロボックルなどに匹敵する「小さ神」の登場。緑色、つまり昆虫色をした老爺がそれだ。近づくと消える詳細は、『となりのトトロ』で妹・メイが家の庭の敷地にトトロの親子をみて、つかまえようと追ったときの部分透明化まで想像させるが、わらえるのは「漬け物石くらいの高さ」。楕円球体のそれは、用途がさだめられているため、長辺ではなく置かれたときの縦の短辺で高さをしるされる宿命にあると思いがおよんで、笑いそうにはならないだろうか。穏やかにみえた「私」は活発で利発な社交家でもあるのか疎開直後に友だちをつくっている点が自然に付帯され、ちいさな「緑爺」のやさしい怪異は友だちにも飛び火してその顔を「のっぺらぼう」に化けさせている。これを怪異の重畳とみるか、「筆の勢い」によって生じたちいさな比喩とみるかで、読者は吟味をしいられることになる。この一篇に仕込まれているのは「物語」に内在する比喩論なのではないか。
 
しかもここからがズレの連続となる。物語素が換喩的にズレるのだ。そうして対象がべつのものに移動する。一種の――第一段階の内挿だ。描写の細部にも、「嘘だろう」とツッコミたい軽い驚愕、前提解除、転覆がにじんでくる。読者は内心でツッコミを入れることで詩に参与する。これはすごく「かわいい」ことなのではないだろうか。一読、表面の童話性にからげられそうになるが、作品参与のありかたが読者自身の子ども時代を召喚するのだ。それでも作者はハンドル切りによって読者をちいさくゆらす。そのちいささが絶妙なのだった。五聯――
 
犬のフーツクは、小さいお爺さんを探しているときに見つけた。
木々の暗い隙間に、あぐらをかいて座っている、茶色に黒いぶちのある犬が見
えた。
「いち、に、さん、し……」
フーツクは、獣で作った押し花を、指を折り曲げて、器用に数える。
「押し花」は、私の手くらいの大きさで、狸や犬や熊などが、固く眼をつぶっ
て紙のような薄さになっていた。
 
対象移動されて出現した「フーツク」の命名者が誰で、しかもそのいい加減な名にどんな由来があるのか。フーツクはあぐら座りが寓話的でかわいいが、「茶色に黒いぶち」の犬はおそらく誰も見たことがないだろう。そんな純血種はいないし、雑種にも存在しない。そのフーツクが肉球のしばりによって指が自在にひらかない前脚先端ではなく、ほぼ人間の手をもち、しかもものを数える知能を有していると叙述によって付帯的に理解されると、犬と書かれた当初がなにかの比喩ではなかったかと読みがゆらいでくる。しかも栞用なのか「押し花」は花ではなく、獣でつくられ、それが成立するためには狸・犬・熊などがヒナギクていどにちいさく縮小されていなければならず、フーツクの手許がそれほど詳細にみえる「私」の立脚地にも保証があたえられていない。仲良くなって隣に座った、その一文が「脱落」しているとかんがえるのが妥当だろうが、「犬」の語でいったん現れた寓意性が、その後の「狸」「犬」「熊」の寓意性により、「紙のような薄さ」に変異させられている点が重要だ。内挿は既知性への関数モデルの導入だが、「薄さ」をモデルに加味していることにはふかい洞察があるのではないか。いずれにせよ、「偽り」とも名指されよう転覆がそれまでの聯よりも頻繁化する。じつはしずかな加速へとむかうこうしたリズム変転こそが、この詩篇の本当の内実ではないのか。五聯、内挿の質が変化する――
 
たくさんの本を持っていたフーツクは、タイの昔話を翻訳したものだという絵
本を見せてくれた。
「……帰郷すると、家に誰もいなくなっていた。近所に住む幼馴染みの男が現
れて、「ドアを閉めた方がいい」と言って、私の周りの部屋の扉を閉めていっ
た。火を起こすと、我が家の火の神様である老婆が、家族の写真を見せてくれ
た。私が十歳にも満たないときに撮影したものである。私以外の家族みんなは、
頭に黄緑色の帽子をのせていた。帽子には、草の芽に似た模様が入っている。
先程ドアを閉めにきた男も、黄緑色の帽子をのせていた。黄緑色の帽子をのせ
ている者は、流行病で、みな亡くなったのだ。写真の中で、私ひとり黄色の帽
子をのせていた。帽子の中央には、「◎」の印があった……」
私はこの絵本がとても好きで、よくフーツクに読んでもらった。
 
この聯の問題は、家だかどこかに多くの本を架蔵しているフーツク→タイの昔話を翻訳した絵本→その中身、というふうに入れ子が進展してゆきながら、その中身も故郷再訪と、老婆のみせてくれた写真のもつ生のうえでの神秘的意味、とさらに内在化してゆく「目くるめき」にまずある。しかも「 」の内容にはやはりたんなる譚ではなく、関数が内挿されている。写真中、黄緑色の帽子を頭にのせた家族はみな流行病で死に、黄色の帽子をのせた私だけが生き残った。私の帽子には◎の印があった――そう語られ、色の黄、あるいは◎が生存の条件(あるいは◎は生存者マークとして事後的につけられたのかもしれない)と「因果法則」がしるされていると一見とらえられるが、その法則を破り、黄緑色の帽子をかぶりながら生存した者が「写真の内側と同時に外側にいて」「しかもそれが絵本の内側である老婆の家にみちびいた幼馴染の男」と設定されているのだ。「例外」なのだが、内挿の材料にはなっている、この不思議な位置どり。しかもナカムラは記述を迷彩化させるためか、あえて冗長に絵本の中身では舌を噛みそうなくらい「黄緑色」「帽子」を反復させている。
 
おそろしい効果が付帯する。絵本のなかで生存にいたった写真内の「私」は、この詩篇の主体「私」と「十歳にも満たない」という年齢設定により、同一ではないかという錯視にみちびかれるのだ。内部性をきわめるため内部にむかってゆくとそれが外部性に反転する(これは内破だ)クラインの壺的空間。散文性を仕込んだ叙述を貫通しているのは数学的な悪意といえるだろう。この二重性により「偽り」がいわば機械生産のように現象されているのだ。物語、叙述内容、詩法はちがうが藤井貞和のかつてのアルゴリズム的名篇「神の子犬」をおもった。写真をみせた老婆と写真のなかの生存少女、あるいは詩篇の主体「吉田みどり」との関係にもわからないが何かが匂っている、と立ち位置をかえ「言い換える」こともできる。
 
記述が長くなりすぎているので、つづく最終聯は簡単に「要約」する(ここまで読まれたかたは、詩篇「犬のフーツク」が、かたちは散文でも紛れもない詩だと確信してできているはずだ――詩の特質は要約しようとすると本体よりも長くなる逆説にあるが、便宜上あえて暴挙をおこなう)。緑小爺の姿は失われ、私は犬のフーツクとなんのためか杉の根もとの土を掘る(この掘ることは別の詩篇「発見」にひかりを投げる)。地下世界に星界が現れるように「星」についての会話が始まるのだが、だれの発話によるかわからない。
 
話は瞬く星と瞬かない星の差異についてで、星は遠く夜空に穿たれた窓、生まれる前の子どもたちが場所を入れ替わって順繰りにこちらをみるときは星は瞬いてみえるが、瞬かない星はたったひとり窓辺にして現世を遠くから見つめつづけていて、その瞳もまばたきしていない、といった内容だが、けっきょく星と眼の弁別まで失わせる魔術性をもっている。
 
その後フーツクは自分で掘った穴に入り、消える。消えることでカフカの寓話的短篇「巣穴」の「モグラかどうかもわからない」「しかしモグラ的な主体」と接続されてゆく。とうぜん読者は「犬」という形容がフーツクにいつからつかなくなったかを遡行的に確認する。それは「緑色の帽子」を頭にのせるように、初出の一箇所にしかついていない。ツッコミたくて笑い、その寓話性に堪能させられながら、詩篇「犬のフーツク」は偽りの叙述法にアルゴリズム=内挿の測量法、解体をとりいれた、その定義不能性ゆえに詩としかよぶことのできないもの、なおかつ「実際にしずかな詩的昂揚のあるもの」と認識されてゆく。知能のたかい名人芸である点はいうまでもない。しかも詩をとりまいていた神経質な「偽り」の問題に、暗喩圏とはまったくべつのところからメスが入ったのだ。
 
つづく収録詩篇「柳田國男の死」も、「犬のフーツク」と比肩しうる傑作詩篇だが、詳細な分析は割愛する。ここでも読者はやさしくゆらされる。ゆれは、詩にえがかれている場の意味の把握と、時制の弁別によって起こされる。そして例のごとく動物を中心に寓話的な配剤にみちる。しかも「犬のフーツク」で禁じられていた詩行の改行連鎖が、繊細な余白・余韻を放つようになる。ナカムラは書法も自在なのだ。「蛍になってもどる(死者の再臨)」「蛍が撮影した映画」「映画のなかの座敷牢幻想」「映写機とフィルムの動物化」「青森の天狗松が植生の景物なのか「九州小倉の無法松」のような人物なのか結局判断できないこと」「瓶」「フィルムがなくなっても白光を投影していた映写機によって途中にある瓶中の「あかく きいろ」の液体が金青に変色しながら、エクランに灰色部分が残存していることから柳田の骨壺の実在が確定化され、この幻燈会=マジックランタンサイクルが柳田的存在による柳田への法事となっていること」「「次の幻燈は十年後です」の神様の言葉から、いまが七回忌で次が十七回忌と予想されること」などが、記述の偽りを解除した中身としてわかってゆく。回想部分で突然出現した主体「私」の回想内容は不明瞭で矛盾感覚にとんでいるが、一箇所、「膣に投函」という逸脱には驚愕を禁じ得ない。
 
詩篇「おおみそかに映画をみる」の夜の樹間の幻想性もすばらしいが、池の底にひらける池という視座にたぐいまれな感動をおぼえる詩篇「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」も、詩の立脚点そのものが展開の入れ替わりもあってはっきりせず、その幻惑力がすばらしい。「立方体状に氷の張った鯉」にみられるイメージの偽り、あるいは片言。支倉隆子のすばらしい短詩「麩」(『魅惑』、思潮社、一九九〇年)ととおく交響しているような気もする。支倉「麩」を全篇引用したのち、マーサ・ナカムラの詩篇の後半を引いて終わろう。どちらにも解説は付さない。
 
【麩】
支倉隆子
 
湿地帯の
水面から
ほぉいほぉいと水蒸気がのぼりつづける。春の。
昼に。
死んだばかりのひとが
麩をちぎっては水に投げている。
 
 
【許須野鯉之餌遣り】(後半)
マーサ・ナカムラ
 
美しい男が、立方体状に氷の張った鯉を釣り上げたという池を見物しに行った。
見つめていたら、青空が池に沈んでいく。
一層、辺りは暗く濁っていく。
暗闇と水中が同化していく。
 
見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
そこらは無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麩にして食べて
しまうと見物客は言っている。
江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、
鯉に餌をやりに訪れている。
「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。
 
地上では若い頃の身体に似せて化粧をする。
水の底では、何もかも終わりがない。
池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠
に遊んでいた。
鯉は、口元に寄せる麩にひたすら口を動かし続けている。
 
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