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2017年12月13日18:10

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マーサ・ナカムラ『狸の匣』上

 
【マーサ・ナカムラ『狸の匣』】
 
『哲学の余白に』のジャック・デリダは、隠喩=暗喩を、偽りの生産装置(単位)として敵視する。とりわけそれは哲学的言説にあってはならないものだと。デリダが俎上にのせるのは、A is B構文中のbe動詞、つまり繋辞だ。AとBとのひとしさをしめすこの構文は、実際は論証ではなく類似の直観によっている。直観だから恣意的だし、同一性ではなく近似値の誤差もつくる。ひいては類似関係のAとBが干渉しあい、まざりあって奇怪なキマイラを生むし、接合面に隙間の生じることもあるだろう。ひっきょう繋辞構文による暗喩の連続は、世界を、幻影や近似値にあふれかえった非実体にかえてしまう。言語が思考を害した惨禍がみられるだけになる。そこでは個々の存在よりも接合のほうが優勢的になるのだ。
 
認知言語学の理論書が詩学の定立に役立たないというのはほぼ常識に属するだろうが、そこにはかならず比喩の分析があり、換喩におされているとはいえ暗喩考察のための例文もある。認知言語学のまずしさはこの例文の凡庸さ、みじかさに負っていて、それは暗喩分析のばあいも変わらない。たとえば「彼女は薔薇だ」。これを「彼女は薔薇のようだ」に較べ「ようだ」の直喩提示が隠れているから暗喩だとし、「彼女」と「薔薇」の類似性が示唆されたとするだけで、認知言語学はほぼ議論を終了させてしまう。これを必要な措辞を脱落させ、短絡させた不全な文とはとらえないし、精確さ、ひいてはうつくしさを欠いた圧縮的短駆ともみない。西欧語ではともかく、日本語では表現が陳腐すぎて、詩どころか歌詞にもみられない用例だろう。こういう生きていない例文を厚顔に提示してしまうのが多く認知言語学の弱点なのはまちがいない。
 
もうすこし詩らしい例文で、偽りの生産装置=暗喩をかんがえてみよう。大手拓次の一節から引く。《あなたは ひかりのなかに さうらうとしてよろめく花、》。ここでは「あなた」と「花」に繋辞の等号が懸けられたかにみえるが、実際はそうではない。「あなた」は「花」だけではなく、「蹌踉」にかかわる憔悴相、「よろめく」にかかわる弱い動作停止、それらにも同時に似ており、しかも表記上のひらがなのやわらかさにも、「、」の息もれにも複合的に類似している。ということは、「あなた」の正体とは多様なものに類似線をのばす「自体の非完結性」であって、書き手は「花との一致」ではなく、むしろ「他との一致をみない、それじたいとの一致」のほうにこころをうごかされている気色となる。
 
しかも一字空白にはさまれた「ひかりのなかに」は、あなたの所在場所をしめすのか、花の所在場所をしめすのか、さらには「あなた」と「花」がともに「ひかりのなかに」いるのか、判断を終始留保させる。「ひかりのなかに」は場所を架橋させる機能をおびながら、関係項の場所をむしろ不在化させてしまうといっていい。結果、この詩句で印象にのこるのは、「あなた」でも「花」でもなく、「さうろう」「よろめく」となぜかむすびついてしまう「ひかり」の憔悴相ということになるのではないか。「一致」をめざす認知言語学ではなく、微差を見とおす詩学ならば、以上のような読みの手順をとるだろう。それでも詩の実作者は大手のこのフレーズに、あまやかであっても「偽り」をみる。「あなた」と「花」の同在化は、反映のような距離をふくまないためだ。
 
A is Bの繋辞構文は論文や箴言には散見されるだろうが、詩では、とくに日本語の詩では、あまりもちいられない。自己規定や対象規定として「わたしは」「あなたは」を主語に、属性を付与し、情熱の質の限定をおこなう事例が目立つだけだ。暗喩派の典型とみなされているだろう鮎川信夫にしても、ためしに『現代詩文庫9 鮎川信夫詩集』をひもといてさえ、デリダの知見とはことなり、詩篇フレーズから繋辞構文を採取することがほぼできない。「彼女は薔薇だ」的な修辞の陳腐さから離れることで、もともと詩の組成が発想されているのだ。むしろ暗喩は「意味」形成上の迂回性、フレーズが意味それ自体から離れようとするたわみとして多元的に現象しつづけている。「直接言わない」のは短縮形をとる繋辞構文だけではなく、さまざまな構文の型だということだ。それらも暗喩に属する。鮎川のばあいはこれに翻訳文体がからんでいる。ただしデリダのいうように暗喩が純粋な存在提示ではなく、そこにない何ものかとの結合を軸にした偽りの生産であって、書く主体がそうした目くらましに参与的だという事実は変わらない。鮎川というか当時の詩法がそれに自覚的でないだけだろう。
 
鮎川よりもさらに暗喩型の詩作者だった谷川雁ならば、偽る悪意がよりつよいためだろう、繋辞構文の変型がすこしあるが、それらが無惨なのが逆に注目にあたいする。詩篇「毛沢東」の達成度とはほどとおいフレーズが奇妙に目立つのだ。色欲の世界大の膨張により、色欲じたいを属性変えさせてしまう詩篇「色好み」では、《おお きみたちの黒い毛であるおれ》のフレーズがある。「おれはきみたちの黒い毛である」が倒置・体言化され、それが「おお」の間投詞で括られ、悪辣美学を駆使する雁からすれば「毛」も「陰毛」ではないかと、いろいろ見極めがうまれてゆくが、ここでの繋辞構文がつくりあげる近似値がもともと魅惑的ではないために、行儀悪さを意図したフレーズ自体のいやらしい突出力だけが澱としてのこってしまう。それは、偽りの生産装置としての暗喩を、その虚偽性ゆえにこのみ、そこに習癖的に語調の強意や断定をもちこむ雁の倒錯によるものだろう。すべてが自発参与的なのだ。
 
詩篇「破船」中の《網をうて 燃える波がおれだ》、詩篇「世界をよこせ」中の《青空から煉瓦がふるとき/ほしがるものだけが岩石隊長だ》などの「おさない」繋辞構文も、その寸詰まり感ゆえにこのまない。これら自発性を消し、文そのものが作者をどこかへ放逐し、類似性だったものを隣接性におきかえ、空間化をおこなうのが換喩だった。暗喩の主体は作者だが、換喩の主体は文――そういうことだ。文がフレーズを「まちがいのように」喚起する。暗喩に隠れていた類似物もろもろの領域が、換喩では隣接連続体として時空展開につながれて「明示」され、詩行はひらきつづける扇をおもわすような運動体へと組成をかえられてゆく。そこでは偽りではなく、現れの一回性だけがその都度あって、真偽の問題からすべてが解放される。このとき構文が変わることで意味もかわる。「である」から解放されれば、たとえば「おれはきみたちの黒い毛」のあとに「に挟まれて在る」「をもやす」などを容れ、詩句から慨嘆を消すかわりに、ぶっきらぼうに存在をしるし、動詞終止形だけをしめすこともできる。その意味で谷川雁の比喩のすばらしさは換喩的に詩句内の連続性がひろがってゆく以下のようなフレーズにあるだろう――《ばくちに負けたすがすがしい顔でおれは/歩道の奥 爆発する冷たい水を飲んでいる》(「破産の月に」部分)。ここには膠着がない。
 
類似と同一との弁別を無効化する繋辞構文にたいし、真理のための同一ではなく、領域化のための類似のほうが本来的で、そこに詩学を賭けるという手段が一方ではあるだろう。AisAの同語反復的虚妄を避けるそのことだけに、詩の先験があるとするかんがえ。西洋詩に底流しているのはこれだろうし、とりわけそこに直観の閃光をもちこむのがシュルレアリスムだ。だからシュルレアリスムを生きた瀧口修造の詩にも必然的に繋辞構文が多い。「偽り」を偽りのまま価値化する手立てといえるが、効果に驚愕をともなうか否かに「実験」が傾注されてゆく。AisBのBが形容詞か形容動詞ならば繋辞機能が不全だが、その段階でも瀧口詩にはハッとするフレーズがある。詩篇名を明示せず、フレーズだけをぬいてみよう。
 
《アフロディテノ夏ノ変化ハ/細菌学的デアル》。不完全繋辞構文だが、認知言語学のいうような、類似の内包はない。夏の季節の到来を感知して、外界が「細菌のように」ふくざつに繁殖しながら、「愛」〔※アフロディテはギリシャの愛の女神〕の様相がふかまっていることがつたわってくる。しかもアフロディテの裸体を微視的にながめたエロスまで揺曳する。ここから少女から大人への変化が、「細菌の殖え」として黒々とおぼえられないだろうか。
 
Bが名詞形だったばあいには、デリダの直観のように、詩想は自由度をやや蚕食され、膠着する。《ヨリ凄艶ナモノソレハ天国ノ園芸術ノ公開デアル》。それでも「天国」の植物的組成がみえ、そこにエロス的好尚物としての禁忌がくわわる。《小麦の石の乳房は鯖の女優の鏡である》。これはイメージどうしが侵食しあって、あまり魅力がない。瀧口は「鯖」になにか特異な思い入れがあるのかもしれないが、一般的には青光りと顔により、女性性にまつわらせるにはグロテスクだろう。《星は遠い椅子である》。これはきれいだ。遠さが価値化されるほか、星にだれかが正体を知らさぬまま坐るイメージのはるかな奥行きをもおもわせ、峻厳な孤独がつたわってくる。《養魚器のなかの紋章は燃える大草原である》。水中と草原、湿潤と燃焼といった矛盾撞着のなかにたしかに紋章がみえ、それが魚になる(ちなみに魚はイエスの象徴として多用された)。むろん「である」を離れれば、瀧口詩はさらに解放される。その達成として以下のフレーズをあげたい――《蝋の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る》――両性具有の天国性が仄見え、かつはそのこと自体が天災化されている。しかも全体に象牙色のイメージをかんじる。蝋はもえたのだろうか。とうぜんここでは何に分類できるかわからないとはいえ喩的な修辞があり、しかも偽りか否かを問題視するのも無意味となる。哲学はともかく、詩に偽りの概念をもちこむことじたいが錯誤だったかもしれない。
 
――というわけで、いささかながい前置きがおわった。これらはマーサ・ナカムラの詩集『狸の匣』(思潮社、二〇一七年)の画期性を語るための前段だった。まだ二〇代の彼女のもくろみの第一は、暗喩によらない偽りの復権だろう。それは「小さ神」の多く出没する柳田民俗学的な散文空間のなかに、最初は逸脱的散文として顔をだす。綿密に編集構成された詩集、その初期段階ではたしかに飛躍的な詩的フレーズではなく、文の内容が、漫才でいえばツッコミを誘発するボケの色彩をもち、可笑性もあるのだが、そうした文が文脈に侵入する仕方が自走的、空間展開的で、これが換喩の機能と似通っている。それが次段階では偽りが美になろうとして、その偽りそのものを内在的に偽って詩化する「換喩の換喩」(ズレのズレ)が複合してくる。こうした複層的な建築性があるから(それでもそれは作者の操作力によって閉じられているのではなく、読者側のゆっくりとした参入にむけてひらかれている)、マーサ・ナカムラが現在的なのだ。換喩/暗喩の領地獲得など、ナカムラは詩作の前提から無効化している。とはいえ「段階変化」を画策するため、ナカムラの詩に「散文」が前提されること、この点が気になる。川田絢音のような、散文内部・散文構造の自己脱落が、そのまま「みじかさの詩」となるような超越性がないのだ。
 
(つづく)
 
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