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2017年12月03日16:34

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神尾和寿・アオキ

 
【神尾和寿『アオキ』】
 
このあいだの木曜日(11月30日)は、北大一年生にむけて神尾和寿『アオキ』(編集工房ノア、二〇一六年)の授業をした。以下に備忘を兼ね、その概要をしるしておく。だがそのまえに――
 
神尾の詩はとうぜんライトヴァースに分類されるだろう。ライトヴァースの本義はW・H・オーデンによれば「俗謡」(そこにあてつけやペーソスが付帯する)だが、その組成法則どおり神尾詩もみじかく、可読性がたかい。独特のやわらかさがあるし、詩発想がびっくりするほど斬新で、「自由詩」という一般呼称、その真価にもみごとに適合する。ところがみえざる博覧強記主義者でもあるし、なによりもするどい逆説とふかい哲学を内包していて、一筋縄ではゆかない。
 
ライトヴァースと哲学性のとりあわせならば現在ではまず大橋政人をおもうひとが多いかもしれないが、大橋が時間や変化の渦中をみつめる繊細な動体視力を詩篇のどこかで発揮するのにたいし、神尾は「大雑把に」なりゆきを端折る。残酷な端折りの天才。この点ユーモラスで狷介な歴史哲学者のおもむきがあって、その時間性記述はぞんざいなほどに飛び飛び〔※飛躍的/点滅的/可笑的〕といえるかもしれない。童話や俚諺的なものにもみうけられるが、神尾の仕込んだ個性的な詩法であることはいうまでもない。まずは傑作ぞろいの神尾『七福神通り――歴史上の人物――』(思潮社、二〇〇三年)から、一篇引用しよう。この詩集では漢字で通常書かれるだろう固有名がぞんざいにカタカナ表記をされ、可笑効果をたかめている。
 
【接触】(全篇)
 
師匠の影を
踏まないように ソラは常に数十メートルの距離を保ってお供をし続けていたので
平泉を巡って
ソラの視線は 師匠の尻に当たっていた
艱難辛苦の旅のなかで 色欲が高じたとき
その尻はむっちりしたものとして現れた
食欲に襲われたときには
南国の西瓜かと 思われた
大垣に到ってから 「旅に病んだ」師匠を床擦れから救おうと
小ぶりのその尻に初めて直接触れてみて
別れを知った
 
間接的に「師匠」として語られるのが松尾芭蕉、「ソラ」が芭蕉と奥の細道、みちのくを同道した河合曾良なのは瞭然としているが、ふたりが衆道の念者と若衆の間柄だったと噂されているのも了解済みだろう。「三歩下がって師の影を踏まず」というが、神尾は曾良の芭蕉への恋着を「数十メートル」(ここで尺貫法ではなく現代の計量法がぞんざいにつかわれているのも可笑しい)と拡大的に想像することで、ふたりの仲をプラトニックに神格化している。このときあっただろう路上の「距離」がむしろ曾良の懸想にさらなる贈与をおこなったとするのが神尾の眼目だ。
 
ちかさにとおさの混合するものがベンヤミンの定義するアウラだが、隠密的脚力をもってとおく先行する「師匠」の後姿、その《尻はむっちりしたものとして現れた》。とおい距離は男を女にし、嵌入可能なものにする。あるいは逆に人間から性差をうばい、嵌入不可能なものにする。さらには「艱難辛苦」やひもじさは、若衆にあるべき性的突破口「尻」を念者のほうへ移行させる攪乱をおこなう。いずれにせよ神格化された色欲の正体はあいまいで、だからそれが食欲にも接合され、尻は旨そうな西瓜に滑稽にも化けるが、それらはみなおのれの物欲しさの変型にすぎない。
 
芭蕉と曾良の旅の大団円。そこにのちの辞世句の暗示をすることで、神尾の想像は、旅の終焉地=大垣を、芭蕉の生の終焉地=御堂筋と混ぜ、そこで曾良が床擦れのきびしい師の(背中から)尻をさすったと逸脱をおかす。同時にこれは史実の「端折り」だ。するとその尻は欲望の肥大から解かれて「現実のように」「小ぶり」で、そこに肉の死相が現れていたとむごい結末を迎える。ところが、このむごい結末こそが懸恋の本当の対象だったという逆転的発見まで滲ませている。つまり詩篇は「奥の細道」を背景にしながら、欲望の段階的変遷、その宿命を達観していることになる。こうしるせば深遠なことが、語調の脱力的な印象(とりわけ「尻」「むっちり」「西瓜」)により笑いへ転化され、しかも詩行の長さの不統一すら視覚的な可笑しさを助長してしまう。その意味でこれは「みじかいのに」「なんでもある」詩篇なのだった。
 

 
『アオキ』という人を喰ったタイトルの詩集は、もしかしたらそれが植物的景観から採られた正当な題名ではないかと、本をひらくまえ、うっすらと期待する読者がいるかもしれないが、その期待も冒頭詩篇のタイトルが「アオキさん」と知ってあえなく瓦解する。たとえばこれは『近藤』みたいな詩集名だったのだ。しかも神尾お得意の、カタカナによる漢字の縮減まで付帯している。詩集は、タイトルが余白ある前頁の左下にしるされ、頁をめくった見開きに詩篇本体が収まる――その反復法則が遵守されている。意表をつくそんなレイアウトが可能なためにも、詩篇はごく短いもので統一されている。その「アオキさん」(全篇)――
 
【アオキさん】
 
アオキさんが
まだ来ない
イノウエさんなら
三年前から来ている
ドラム缶にまたがってたばこを吸っている
旨そうだ
イヌのウエダ君と
サルのエグチ君に声をかければ
けんかの最中だ かみつかれてひっかかれて
すごく痛いのかもしれない
アオキさんだけが いつになっても
来ない
はじまらない
 
冒頭二行《アオキさんが/まだ来ない》は、井坂洋子の出世作「朝礼」の自由間接話法《安田さん まだ来てない/中橋さんも》ととおく交響しているかもしれない。すると詩篇の前提している場が「朝礼」かと構えたくなるが、なにか同窓会のような、旧知のバラバラ順繰りの集まりをかんがえるのが常道だろう。するとつづく《イノウエさんなら/三年前から来ている》が、場にあたえられるべき論理的まとまりを壊滅させてしまう。これはどこの場で、なんの集まりなのかが皆目わからなくなるのだ。しかも場は屋内ではなく、外、しかも記憶の空間かもしれない。なぜならドラム缶が「ころがっていたのは」、往年の、戦後未開発のままのこっていた「原っぱ」にふさわしい景観だからだ。井坂の人名が「安田」「中橋」と実在的信憑がたかいのにたいし、神尾「アオキさん」の人名は恣意的出鱈目かもしれない。なぜなら登場順に再転記すると、「アオキ」「イノウエ」「ウエダ」「エグチ」と律儀、機械的に、アイウエ(オ)順で一音ずつ代表されているためだ。俗諺「犬猿の仲」が、「イヌのウエダ君」と「サルのエグチ君」という措辞に分け振られているのも機械的だが、それらの機械性は安直な処理、ぞんざいをおもわせる。それでこの詩篇が軽快なナンセンス詩かというと――

読者は詩があるかぎり詩想が伏在しているという擬制から離れることができない。ならば「いつになっても/来ない」詩の主人公、「アオキさん」に過大な役割を負わせてしまうことになる。何者かの「不在」が、場の真相を、会合の真相を確定する。これは単純な真実だ。昭和天皇の不在が平成を確定したし、大谷くんの不在が来年度のファイターズを性格づけする。ということは集団や時代は、不在者の確認により、後ろ向き、遡行的に規定される奥行きから離れられず、その法則下では不在性こそがむしろ実在性だという逆転やゆらぎまで起こることになる。不在がみえるのは人と人のあいだで、あいだはむしろ「それは―かつて―あった」で充満しているのだ。喪失にみちたバルト的写真論はやがて「あいだ」こそを現像してゆくだろう。ところで詩篇「アオキさん」の眼目は、「なにについて詩がつくられているか」その大前提が一切判明せずに、「不在」と「未発」が人称のようにただ実質化されていて、それでも詩篇が詩篇たる要件がみたされる逆転にある。
 
詩集『アオキ』には冒頭詩篇「アオキさん」ととおく交響するような詩篇「ゴクラク、ゴクラク」が収録されている。これも全篇引用してみる。
 
【ゴクラク、ゴクラク】
 
極楽には誰だって行けるのだって という
わけで
ぼくもきみたちも
よだれを垂らして
この蓮の池のほとりにて膝を突き合わせているのに
あいつひとりだけがいない
何かにつけて平均的な
あいつだったのに
なぜか と
そこで理由を尋ねてしまうようでは
極楽では
やっていけません
 
「という/わけで」が行跨りにみえるかもしれないが、「という」を掛詞の重複部分ととった。その古典的詩法に、「極楽」「蓮の池」の仏教語彙が宥和している。しかも《極楽には誰だって行ける》は、極楽の絶対的許容度をしめす親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の悪人正機説を即座に聯想させるが、たとえばジャン・ジュネにも、悪行のさなかに神の視線のちかさを体感し、よって神からの孤独を癒すため悪を意図的に敢行しているという言明がその小説群のどこかにあったはずだ。とりあえず「アオキさん」と比較すれば、場は死んでから善行を積んだ者の行く極楽に定められ、そこに「あいつ」だけが不在だ、という感慨が描かれていることになる。
 
極楽に行けない理由はふたつある。ひとつは、まだ死んでいないこと。もうひとつは親鸞には離反するが、悪行をくりかえしたために地獄に堕ちる事例だ。この詩のばあいは後者。ところが「何かにつけて平均的」という、リスクヘッジ的な意味では利発で善とみなされることが地獄堕ちの理由になっているのではないかと詩は間接的に示唆する。平均的収入、平均的学歴、平均的出自、平均的容姿、平均的幸福――自分の属性すべてを平準化させこの世にとけこむことは、「この世を能くかんじる」最大の手立てではないか。ところがその同調を、極楽の主権者がきらう。なにかの突出があるためにいびつになっている人間のかわいさこそを善としているようなのだ。むろん同調圧力というネット社会の通弊がいわれる。一方では「共苦」という最大限の同調が感情の倫理性にもなる。となると形式の同調はダメ、同調による深浅の無効化なら善といった、判断哲学が拓けてくることになる。
 
いずれにせよ、白黒のあきらかな区別ではなく、「いびつ/平滑」により昇天者が弁別される極楽は、善悪の区別いっさいの無化を、現在の文脈でさらに機能化したものといえるのではないか。ところがその事実を極楽じたいに審問してしまうと、極楽がそのまま瓦解してしまう。極楽とは逆説なのだ。ところが逆説そのものに「おまえは逆説か」と問うと、「おまえ」か「逆説」が破砕されてしまう。そのかんがえのもと掲出部分の最終三行がつづられている――詩篇「ゴクラク、ゴクラク」はそのような読み筋を啓発する。恐ろしい詩だ――そうかんじるまえに、しかし詩篇はそんな真剣な極楽説そのものを一笑にふしている。「よだれを垂らしながら」「やっていけません」の語調はそれに貢献しているし、まるで禿げ頭に手ぬぐいを乗せた温泉内の爺やストリッパーのご開陳に満悦するおやじのような詩篇タイトル「ゴクラク、ゴクラク」が真剣化に歯止めをかけているのだった。
 
平準化一色の者が極楽に行けないという着眼と交錯する詩篇には「祝福」もある。これも全篇引用――
 
【祝福】
 
おめでとう
ありがとう
税金を全部
費やして
花火を打ち上げます
あらゆる因縁も打ち上げます
となると 今後
地上に残存するのは
正直な
わたしたちだけになりますね
すがすがしくも感じられますが
よく考えてみれば
恐いことですよね
 
書き出し「おめでとう/ありがとう」に唖然とする。こんな簡単な語彙を並べ脚韻効果をつくりあげる詩の「自由」にこれまで出逢ったおぼえがないためだ。しかもそれは人心の伝播、そのうつくしいひろがりをもよびよせる。「花火を打ち上げます」は比喩か。たとえ「風呂敷をひろげる」「喇叭を吹く」同様の、誇張をあらわす慣用比喩だとしても、じっさいの花火がみえてしまうのが詩だ。地縁血縁、前世、善悪の解除不能な宿命的つながり、世代を超えてまで現象する誘発関係を「因縁」というが、「あらゆる因縁を打ち上げます」からは地上性の悪縁を空に飛散させる一大昇華の光景がうかびあがる。結果、すべての悪を脱色漂白消毒されて、「地上に残存するのは/正直な/わたしたちだけに」なる。これが恐い――つまり浄化まえの悪渾沌であってほしい、これこそが「祝福」に値すると、「わたしたち」主体的判断が祈念していることになる。それでこの「祝福」とさきの「ゴクラク、ゴクラク」が同等の善悪観をもっていると気づく。ところが一瞬ここで結像した「花火」は、神尾的世界観では危ないものなのだった。「過去形」(全篇)を引く。
 
【過去形】
 
ものごとが起こる瞬間に
そのことを同時に語るのは 無理だろう
夏の河原に
仲良しの みんなが仕事のあとに集まって
花火を見上げる
弾けると
もう
思い出か
帰りの満員電車のなかで
痴漢行為に走ったのも
思い出か
軽快にふるまった中指と人差し指の先端を見詰める
君の声が出ない
すかさず
長い睫毛
その次の次の 花火
 
冒頭《ものごとが起こる瞬間に/そのことを同時に語るのは 無理だろう》は実況行為の本質的不可能を語っている。「わずかな遅れ」は判断や描写の必然で、しかも光ですらその届きのあいだに対象からのわずかな遅延をしるしづけるのだ。たとえば感覚上、映画が残像という遅延と溶融の産物だとすると、花火見物はどうなのだろうか。それが高感度カメラの撮影後に微速度上映されたとする。すると空中をゆっくり移動する火花と、それがわずかにしるすひかりの尾が、分離と融合の範囲をどのようにして多数化されてゆくのか、わるいこの頭では想像すらつかない。夜空のそうした光景が地上の過去性をつよく照射するだけだ。「地上とは思い出ならずや」という稲垣足穂の永遠の慨嘆はここに似合うのではないか。いずれにせよ現在は過去を不断に漏出することで、それ自体を対象化できない脱―当該性をおびているという感覚崩壊が到来する。
 
だから痴漢行為の現在性も、間接的・隔絶的な過去性をおびる。相手のよわい部分に、ひとは現在的にさわることができないのだ。詩中二箇所の「思い出か」には、無責任な感慨と、永遠の慨嘆、このふたつがとけあっている。「さわれないことをさわっている」「さわっていることがさわれない」、このふたつによって痴漢行為はその現在性が過去化し不可能化するのだし、だからこそスリ行為にふさわしい「中指と人差し指」の使用(ブレッソンや黒木『スリ』、ちばてつや『モサ』等を参照)が痴漢行為に「間違って」混在し、しかもその指ふたつが主体にとって幽体離脱的に疎遠にさえなるのだ。
 
一見、体言止め連打の衝迫をともなった最終五行が道義的に残酷だ。痴漢被害の恐怖をおぼえる対象を舌なめずりして活写しているようにみえるからだ。それでもそれは、それまでの詩脈から「過去性の溶融による不可能化」という罰をうけている。じつは実体化がないのだ。「次の次の」というからには、1「花火」、2「痴漢行為」、3「ながい睫毛(の恐怖にさいなまれた苦悶のふるえ)」という順番がかぞえられているのだろう。ところが人間の部位の、そのような不可能性にとんだ尖端のふるえを「花火」とみなすことには、自己感覚の行き届かなさへの逆説的な「祝福」がともなっている。おそろしいことが描かれながら、ものすごくうつくしい、とかんじるのはそのためだ。
 
ところでまさか神尾を読者が痴漢常習者ととらえることはないだろう。他の詩篇のもつ哲学性・宗教性がそれをゆるさないからだ。ここでは「痴漢行為」は先行する花火の過去性を、人間(の女性)に適用したもので、感覚論的な実験ととらえるべきものではないか。引用はしないが、感覚の脱自明性への讃歌は集中もっとも泣ける詩篇「ものの見方」に揺曳しているし、悪辣が引きに向けたフレーミング落ちで緩和化する例は「映画」を扱った「すっぱだか」にある。するとたぶん、「過去形」はそうした「フレーミング落ち」が欠落しているだけなのだ。逆転がないことに逆転がある。そうすると、「道具が用途を規定されている」という固定的世界観から、「用途の加算から道具の自明性がきえる」という逆転をみちびいた、笑えてうつくしい詩篇「楽器の色々」にも移行することができる。最後にこれを全篇引用しよう。
 
【楽器の色々】
 
老婆の顔面を強打することから
マンドリンの用法が
広がった
前世紀の初頭から
さみしがり屋さんは
ベッドのなかに チェロを持ち込んでいる
やがては
色とりどりのカスタネットが
上空から ばら撒かれることも
あるだろう
拾ってなくてもよし
拾って
タンスの奥にしまっておいて
六十年後に
自分と一緒に焼き上げてみるのも また
よし
 
用途が出鱈目に付加されることで、道具=楽器の自明性がきえてゆく。マンドリンは兇器となり(打撃対象が「老婆の顔面」と具体化されるのが可笑しい)、しかも書かれていないが、そうなった途端、ただの壊れた何かへと堕ち、すべての役目を終了させる。「さみしがり屋さん」と結合させたチェロはダッチワイフのように同床を目的とした性的愛玩道具となる。女性的なくびれがあるからだし、もともと弾かれるときにそれは奏者の腿に支えられるという猥褻が介在している。
 
マンドリン、チェロそれぞれに、博覧強記の神尾ならではのふくみが仕込まれているだろう。マンドリンはクラブに入り、その演奏に惑溺した萩原朔太郎。大正の風物、西洋楽器の日本的抒情化の典型だ。つまりトレモロで鈴虫のような声を鳴かせ、集団で嫋々と演奏されて完結をみるそれは、ブルーグラスやブルースのフラットマンドリンのような打楽器的ストロークへの発想転換が当時ならなかった。それを憤るから神尾は、それを、老婆をうちのめす別の意味の「打楽器」として妄想したのだ。
 
ならばチェロにはシュルレアリスト、マン・レイのキキをモデルにした「アングルのバイオリン」が示唆されているのではないか。ターバン帽をかぶって坐るキキがわずかに横顔をみせ、たぶん胸許を布で覆いながら、全裸のエロチックな背中を、カメラをまえに露呈している。尻の割れ目がわずかにみえる。肥り気味だが、左右体側のシンメトリックなくびれがうつくしい。バイオリンのボディには共鳴のためにf字孔が左右対称に穿たれているが、キキの裸の背中にも腰のうえあたり、左右対称にf字孔が加筆され、キキとバイオリン属の類同性が表明されている。バイオリン属は、小→大の順にバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスとなるが、坐るキキの裸の背中、その実際の「おおきさ」はチェロの領域に属するものだろう。もし神尾「楽器の色々」の「チェロ」がマン・レイの「アングルのバイオリン」を意識しているとすると、シュルレアリストたちの一見革命的とみえた自動記述などの営為、至高点などの思想も、「さみしがり屋」の迷妄と括られていることになる(あ、マン・レイをいうまえに、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」があった)。
 
すると満を持して現れる三番目の楽器、カスタネットにはさきのふたつの弦楽器同様に詩的な出自があるのだろうか。まず順序を飛ばし、最後から三行目の「六十年後」からみる。とうぜんそこでは関西俳壇の不敵な中心だった永田耕衣の、よくかんがえると意味が不定の減喩的名吟《少年や六十年後の春の如し》が聯想されてくるだろう。となると、「カスタネット」には関西に居住して、前衛短歌の首魁だった塚本邦雄の初期作(初句七音、しかも句跨りの装飾的抒情歌)《象牙のカスタネットに彫りし花文字の マリオ 父の名 ゆくさき知れず》がおもわれるのではないだろうか。西洋的ロマンの断片を志向するこの歌は、たぶん「ゆくさき知れず」までの全体を枕詞とする、短歌の名詞化の実験作だろう。うごきよりもイメージをこのむ塚本の癖が出ている。
 
カスタネットはいまでなら、宮崎駿『もののけ姫』の「コダマ」をおもわせる。ところが神尾の詩ではそれは、空から恩寵のように降るのだ――飢えた戦後の日本人のために進駐軍がばらまいた食糧物資のように。乾きにあえぐ者らへの慈雨のように。しかも塚本や宮崎の「象牙色」「白」を超えた「色とりどり」で。夢の大団円のようにおもえるが、生はつづき、カスタネットがタンスの奥にしまわれることもある。ところがひとが少年に先祖返りし、翁童化する「六十年後」、カスタネットは柩に副葬され、屍体となった自らとともに焼かれ、本当の大団円がやってくる。夢は現象しない。その者とともに死に、残像として揺曳するだけだ。神尾は破天荒な改行が見事なのだが、途中で「拾わなくてもよし」と綴られた「よし」が、最後、改行を挟む「また/よし」と法則を変えられて終わる。「よし」がそのままに詩行変遷の祝言となることで、肯定性があふれるのだ。
 
繊細を装った厚顔が現在の詩作に横行している。神尾の多くの詩は逆だ。ユーモアの不遜な厚顔を装いながら、そこから哲学の繊細へとむかう入口がもうけられている。詩のテクスト論が有効なのは、むろん現在流行の詩作趨勢ではなく、神尾のように、援軍のない詩篇のほうだ。神尾をたんにライトヴァースの作者ととらえると大損をするだろう。
 
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