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2017年12月01日09:09

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鏡順子・耳を寄せるときこえる音

 
【鏡順子『耳を寄せるときこえる音』】
 
鏡順子が生前刊行した詩集は、彼女の二七歳の誕生日の発行日付をもつ『卵のなかは、夜』(詩学社、八一年)だけだった。その後、詩作者・佐々木安美との同棲、結婚、さらには子育てを綴った、さほど多くない詩篇が未刊のままにのこされ、そのまま二〇一六年に彼女は他界した。詩集を編む気がなかったのだろうが、佐々木が遺稿詩篇を精査、みずからの関わる栗売社からまとめた。詩集は小ぶりで瀟洒な、しかも生のさなかにあって諦観と不安と沈黙がにじんでくる負の電荷をおびた傑作となり、『耳を寄せるときこえる音』と名づけられた。八〇年代中期後期の作品群とおぼしい。ゆたかさにとどいていないつつましい暮らしぶりが基調にあるが、「倦怠を感覚する者」の透視力・清聴力が全篇、こわいようにゆきわたっている。襟を正さざるをえないちいさな衝迫力があるのだ。
 
ふりかえると生前刊行の『卵のなかは、夜』には、少女詩集の印象があった。みずからを稀薄にしたい希求が底流にあり、それでも愛への依存や脱出衝動がみずみずしい措辞で語られるためだ。のちの『耳を寄せると―』収録詩篇と較べると、まだことばのはこびが乾ききっておらず、叙述が削りきれていない憾みものこる。集中「ひとのかたちを」という印象鮮明な詩篇がある。その書き出し――《ひとのかたちを脱ぐ//わたしは/世界から/はなれていったわけではなく/はじめから/遠かったのだ//ひとのかたちを脱ぐと/わたしは/どこにもいなくなる》。掲出部で気づくのは、構文の主格部「わたしは」が残存し、そこに自己記述欲求が窺える点だろう(意味的には自己抹消が主題だが)。この書法を『耳を寄せると―』収録詩篇段階で彼女は封印した。自罰的営為、といえるほどに。
 
「少女詩集」と括られる点で、『卵のなかは、夜』はさほど個性的な詩集ではない。男性もふくめ、だれもが「少女」へと機械的に生成されてゆくからだ。自他をふくむ文明の問題といえるだろう。けれども「わたしは」という構文の主格部を峻厳に削ぐことも個性化を約束しない。もちろんそれは責任をあいまいにする日本語の特性だし、主部の脱落により、いわば「世界の自発」として主体を囲繞してくるさまざまな事象は、能動と受動のあいだの中動態を適度にたちあげるだけだ。わたしの事前にすら時空が連続していることは日本語的所与にすぎない。『耳を―』時点の鏡順子は、たぶんこのことをするどく意識していた。ことばをかえていえば、個性化とは脱個性化の潜勢としてしか発現しない、だから主体は「とりあえず」自己消去をくりかえされなければならない、と。その意味で『耳を寄せるときこえる音』は通常の説明的な「文」からの偏差そのものを加算の単位にしている。そこから方法論的な詩集のたたずまいがしずかに結像してくる。まず一篇全体を引こう。
 
【大和メリヤスマンション】
 
一階は
メリヤス工場だときいている
 
青い上衣を着た人たちが
出入りしている正面には
受付らしいものがあり
二階へ行く階段は
わきへまわっていかないと見えない
五階まであります と
周旋人が言う
 
横手の壁には
つかわれていない金属扉が
そのままになっていて
ミシンをかける音が
低く きこえている
 
わたしたちは二階の
二番目の部屋にはいる
 
なにもない台所に
あかりをつける
階下では
かっぽう着をつけたおばさんたちが
背中あわせに並んで
ミシンを踏んでいる
 
排水口やガス器のことなど
周旋人が説明するのをききながら
決めかねて
 
こうしている間も
縫いあげられていく たくさんの
メリヤス肌着のことを
考えていた
 
小説の「描写」につうじるような状況提示が、「感情」を叙述しない非・小説的な、乾いた文体でそっけなく綴られている(この指摘に二重性があるのに注意)。ゆっくりと――つまり「遅延」をともない「環界の自発」として判明してゆくのは、「わたしたち」が不動産屋の案内で、貸間物件を検分している状況だが、導入される個物はわびしいくらいに輝きを欠いている。「メリヤス工場」「青い上衣」「金属扉」「かっぽう着」「背中あわせ」「排水口」(「排水口」は佐々木「さるやんまだ」の景物でもあった)。メリヤス工場があるのだから立地は工業区域だろうし、「わきへまわって」階段をのぼってからでないと住居部に至れない、エレベーターのない不便は、物件の安価を約束しているだろうし、しかも一階の工場の真上の二階という条件も、騒音被害を予想させる。廊下や室内など屋内空間のうすぐらさもつたわってくる。それら悪条件をのまざるをえないほど、これからともに暮らしはじめるだろう「わたしたち」は貧しく、あるいはその貧しさを着衣の様相などから不動産屋に読みこまれた経緯が間接的につたわってくるのだ。せつない。この「間接的につたわる」存在の質が、詩篇の背後で粉飾とは無縁な凄みを湛えているし、多弁でないことの価値も精確に測られている。「みずからにかんしては口を噤む」、それは処世上の金言だろう。
 
作中、唯一ある主体主部は、四聯冒頭の「わたしたち」だ。そうなると、一聯の「きいている」にはぶかれている主体も「わたしたち」なのだろうか。詩篇をただちに読み返すと、じつはここで考えがぶれる。日本語構文の通例のように、はぶかれているのは「わたし」という公算のほうがやはりたかいからだ。すると、ここで「わたし」「わたしたち」の痛ましい乖離が主題として伏在しているのではないかという読み筋がうまれる。なにしろ詩篇は「傷」を負っている。一聯一行目、わずか三文字しかない「一階は」は、削ぎ落としのあとの残骸のような隻句にすぎず、なにかゾッとさせる空白感をあらかじめ病んでいたのだった。
 
四聯後半が肝だろう。改めて転記すると、《階下では/かっぽう着をつけたおばさんたちが/背中あわせに並んで/ミシンを踏んでいる》。一聯は「周旋人」からの伝聞だし、三聯の「金属扉」も閉鎖中だし、周旋人が一階の工場部分のようすを訪問者たちに開示した具体記述すらないのだから、いま掲出した箇所は主体=「隠れている」わたしの、「予想」ととりうるべきものだろう。つまり床下からはげしくかさなってひびくミシン音が、聴覚を超え「様相」を具体化したのだ。それにしては「かっぽう着」、あるいは工場空間の手狭さをしめす「背中あわせに」の措辞が生々しい。ともあれ、たとえば掲出部ののちを「そう思った」と括りこむ作法が乱暴に脱落することで、想像の「間接性」が、現実の「直接性」と奇怪に溶融する逸脱がしずかに遂げられている。おそらくはつつましい「わたしたち」と同等につつましく工場労働にいそしんでいるだろう中年女性たちに「わたし」が同期し、そこでは自他、聴覚視覚、想像現実の境界が破砕されている。字面ではみえない強度をひそめて。ただしそれは「わたしたち」ではなく、「聴くひと=わたし」固有の領分にしか存在しない事柄なのだ。一回つづられる「わたしたち」は物件確認の当事者がカップルだと告げるが、隠れている「わたし」からみたその「相手」の描写が、残酷といえるほどに一切削がれていることにも気づかされる。
 
最終聯の「メリヤス肌着」は、おばさんたちのミシンにより縫われる多数性として詩空間に現出している。肌着の具体性とともに、「重畳するもののなだれる白」が「考え」られているのだが、この「考えていた」は結像性寸前を撫でながら、同時に「放心」をも指示している。だから「わたし」と「わたしたち」の乖離が仕込まれている感触になる。不動産屋に案内された、「マンション」とは名ばかりの貸間を、「相手」と相談して借りるか借りないか、その成り行きが放棄され、「判断渦中」での思慮と放心の複合、その結果としての判断対象からの離脱がうかびあがる。そうさせている動因はおそらく「生の倦怠」だろう。それは「相手」の存在をも勘定に入れたものととれる。「出発」をしるしづける主題に降下している「停止」という汚点のようなもの。読者はおぼろげにそれを感知する。気味悪いものを掴む。同時に、「考えていた」主体の普遍的なはかなさをうべなう。単純な措辞しかないのに、なんとひびきのゆたかな詩篇だろう。つづく詩篇も全篇引用してみる。
 
【婚姻届】
 
道路をはなれて
草の道をいく
マーケットからは遠のいている
 
丈の高い草の向こうでは
作業着がいくつかうごいている
話し声もきこえる
 
風の方に顔を向けたまま歩く
 
古い電柱が積まれている
町名が
ついたままのものもあり
番地を読みながら
ひとつをまたいでいく
 
小型トラックが
作業の人たちをのせて
走っていくのが見える
あの道をいけば
市役所の前を通って
やがて日光街道に出る
 
見ている方角が
まぶしくなってくる
ふくらはぎに
たくさん傷がついている
 
詩篇タイトルと詩篇本体のスパークがある。つまりタイトルが欠落すると、詩篇は十全に意味化しない。この点は後述するとして、一見なんの変哲もなく自明性をもっているとみえる措辞に脱自明性が潜勢している点が、読みにあたって落とされてはならないだろう。そのまえにいうべきは、幹線道路の歩道を外れて「草の道をいく」、みえない主体=「わたし」の消極的な迂路選択、あるいは無駄のよろこびだろう。いずれにせよ目的にむけての非効率のほうに生のかがやきと厚みがあるとする哲学がここに伏在している。
 
またもや景物がわびしさをつくりあげる。「作業服」そのものを主語にした二聯中の構文は、換喩の見本といえるものだ。「丈高い草」、不法投棄か正規保管かわからぬが、おそらくは川ちかくの草っぱらに積まれた用済みの木製電柱群。時代は電柱が木製からコンクリート製に移行している渦中だったのだろう。「マーケット」はスーパーや郊外ショッピングモールではないだろう。往年の商店街によくあった、ひとつのおおきな屋内にさまざまな商売が櫛比している雑然とした空間。「市場」とよばれた商業中心地だが、とき が八〇年代ならスーパーの進出時期が完了しているので、わびしい褪色をしるしていたはずだ。地名的な明示が一箇所ある。「日光街道」。それで主体のさまよっている場所が、なんとなくだが、北千住あたりの荒川ちかくという気もしてくる。八〇年代のその付近は、まだ開発漏れを起こして辺境感がつよかったのではないかと余計な想像がたちあがってくる。
 
最初の読みの要点は、二聯にある「作業服」と五聯にある「作業の人たち」がおなじかとかんがえることだ。もちろん散文を基盤に、叙述の削ぎ落としによって詩が組成されているのだから、詩中にその解答をあたえるフックはない。だから読者は参与的な選択をおこなう。それでもし「おなじ」とすると――主体は相当の長い時間(つまり作業員が作業中から作業を終了するまでの時間)、草っぱらを円周をえがくように彷徨していたのではないかという判断が生ずる。なぜそうなったのか。おそらくは逡巡のためだ。ここで詩篇タイトルが機能する。つまり夫の就労中、ひとりで「市役所」へ「婚姻届」を出す使命をおびた主体が、要件を果たすべき場所へ足をなかなか向けない。この「たゆたい」こそが、「感情」をしるさない詩篇に底流していて、またもや「共同生活開始の渦中」で、主体は「生の倦怠」に浸潤されているのではないかと戦慄が走ってくる。
 
先に掲出した詩篇でも――あるいはどの詩篇でもそうだが、鏡順子のすばらしさはそうした戦慄が顕示的ではなく、ちいさくくぐもっている点だろう。感情語彙の脱落とあわせ、彼女の詩を駆動させているのは、「書かなくてもいいが、使命により、詩発想に遅延して書いてしまう」恥じらいだと感じられる。倦怠もまたこれみよがしではない。だから最終聯、「見ている方角が/まぶしくなってくる」と倦怠とはべつのものが詩に混色してくる。それでも受容性だけを据える鏡の詩法では、それは具体的な見聞の挿入にすぎず、喩的付与、喩的多様化からは外れているはずだ。「まぶしくなってくる」がなにかの予兆の性質までおびるとすれば、それは詩篇のどの「位置」でそれが書かれたか、位置の機能性だけの問題だろう。とりあえずそれは祝言の手前で書かれ、しかもそのあとが「ふくらはぎに/たくさん傷がついている」と逆転的に収められる。これも暗喩ではなく、草っぱらをさまよった果ての事実ととらえたい。そのほうが衝迫力にとむためだ。概して暗喩的読解は、衝迫体験の軽減を内包しているものだ。弱い読みともいえる。
 
書かれてあるものを、書かれてないものがおおう。あるいは下支えをする。さらには、無表情のしずけさのなかに、攪乱作用がひそむ。それは詩句の現前から誇らしげな決定性を奪う分岐可能性ともいえ、これを寓喩と分類する向きもあるだろうが、鏡順子の詩は、文の説明性の縮減により、詩句の脱・当該性へといたっている点が重要だ。その後にそれが宿命的な「当該性」となる。みとめなければならないのはこの順番だろう。そうでないと、「削除」という峻厳な実質をもつ詩行の呼吸が、ものたりなさをただよわせる「欠落態」に貶められてしまう。試行的に書かれようとした生活上体験上の詩想が、削減を経て詩篇として定着される。このとき書かれようとしていた当のものが、詩想ではなく削減そのものだという二次化が生ずる。このことで詩篇細部の具体性が恩寵となり照応しあう。むろんこれは分厚い布を重ね着する重々しい暗喩では生じない事柄だ。この指摘は集中すべての詩篇に妥当する。分析をはぶくが、本詩集は好詩篇が満載されている。
 
それにしても先の「電柱」ではないが、照応しだす景物は、鏡順子のするどい選択眼により実体化されている。八〇年代を知るものはとうぜんそこに過去の符牒をみる。ところが彼女のたとえば「倦怠」は現在と同時に、過去にも未来にもむけられる無時間的なものだ。だから景物の過去性がゆらぐ。『耳を寄せるときこえる音』はノスタルジックに過去を指標する機能ではなく、普遍の「現在」だけを清潔にさだめつづける、時間を超えたあらわれとして遇されるべきだろう。
  
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