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2017年09月08日10:51

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天の川銀河発電所

 
山田航の編んだあたらしい短歌のアンソロジー『桜前線開架宣言』は多方面に評判をとったが、そのむこうを張り佐藤文香が「俳句版」として編んだのが、『天の川銀河発電所』。俳句の現状への俯瞰をみちびく労作なのはまちがいないが、いまの短歌のあたらしさが「口語」「些末性」「あるある」「親和性」などの現象面で一望できるのにたいし、もともと圧縮・飛躍をもとにした非歌唱系の文芸=俳句では、冗長な口語は相性がわるいし、あたらしさも些末性の審級に終始するようにみえてしまう。それでなのか、『桜前線―』では短歌のあたらしい才能にかかわる遠近法が読後形成できたのにたいし、『天の川―』ではそれが麻のようにみだれる。
 
べつだん編者の責任でなく、もともとあたらしい文芸だった俳句にあたらしさをさらにかさねる矛盾が原理的に露呈してしまうのではないか。口語短歌は語彙語調文法に戦後短歌からの断絶があるが、一九六八年以降生の俳句作者たちには戦後俳句からの明瞭な離反がないようにおもえる。基本的に俳句は辞の流露ではなく詞の配剤で、そこに俳句の俳句性が自己規定されるしかないためだ。あるいはいちじるしい破壊傾向を生きる俳句作者がこのアンソロジーからはぶかれているのかもしれない。ともあれ、『天の川―』ではかつてぼくが熱狂したような永田耕衣、赤尾兜子、中村苑子、安井浩司たちのような突出がない。そういう才能から「減喩」をたちあげてほしいのに叶わなかった。それが「平準」をしるす現在時の特質なのかもしれない。もちろん佐藤文香の慧眼選択をつうじ名句だと唸ったものも数多い。備忘も兼ね、いくつかをかんたんに列記しておく。
 
《名が鳥を仏法僧にして発たす》 福田若之
 
《蛭泳ぐ自在に蛭を司り》 生駒大祐
 
《重力に色を抜かれて藤枯るる》 北大路翼
 
《耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と》 黒岩徳将
 
《我も汝も秋冷のもの汝を抱く》 藤田哲史
 
《つぶりたる瞼のずれや冬芒》 藤井あかり
 
《瀑布までからだを運ぶからだかな》 五島高資
 
《いつ逢へば河いつ逢へば天の川》 田中亜美
 
《水吸うて水の上なる桜かな》 曾根隆
 
《背きあふうつつの百合と玻璃の百合》 大塚凱
 
《白日傘二青年入り天の如し》 関悦史
 
《宙に書く文字透明に神の留守》 日隈恵里
 

 
田中の一句については、星合を軸にした文中の解釈をとらない。現世での邂逅と、死後における逢いとの、離反と融合をにがく言い捨てているとおもう。関の一句は、阿部青蛙《かたつむり踏まれしのちは天の如し》を想起すると陰惨美も湧き出るだろう。
 
それにしても虫眼鏡を繙読にさんざん使用した。花眼には試練をあたえる一書だった。
 
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