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2017年09月07日12:57

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三島有紀子・幼な子われらに生まれ

 
【三島有紀子監督『幼な子われらに生まれ』】
 
開巻後ほどなくして、血縁上「分離」と「無縁の融合」とをしるす、ふくざつな家庭状況がみえてくる。郊外の瀟洒な一戸建から商社に通勤する、中年の主人公・信=浅野忠信を中心に、映画での叙述順ではなく、役柄の人生の時系列で、「事態」をまずまとめてしまおう。むろん本作では「判明順序」がすばらしいのはいうまでもないが。
 
信には大学時代のつきあいから結婚に発展した女性・友佳=寺島しのぶがいたが、離婚した。娘・沙織=鎌田らい樹(映画の現在時では小六)をさずかってはいたのだが。のちに描写されるが、沙織以前にも友佳が妊娠していたことがあり、深夜帰宅を繰り返す大学勤務の彼女はアカデミックポスト昇進に急で、夫に無断で子どもを堕胎してしまっていた。家庭や人生にたいする価値観のちがいが亀裂の理由だった。のち、浅野は二人の娘(姉・薫=南沙良=映画の現在時は小六、妹・恵理子=新井美羽=同、保育園児)をもつ奈苗=田中麗奈と再婚する。信は精一杯、血のつながらない継子たちにたいしても温順な父であろうとしている(そのため家庭中心に勤務態度をかえている)。これものちの回想シーンでわかるが、奈苗は前夫・沢田=宮藤官九郎のギャンブル、女遊び、さらにDVに耐えかね、ぼろぼろになって離婚していたのだった。いっぽう現在の友佳は、おなじ大学教員の夫と再婚、安定的な家庭を、信となした沙織も加え、いとなんでいる。
 
荒井晴彦の脚本を、撮影・大塚亮(大森立嗣監督作品のカメラマンなどを歴任)とともに映像のふくらみにかえていった監督・三島有紀子(『繕い裁つ人』という大傑作のある点はもっと重要視されていい)は、描写細部すべてに「意図」をめぐらせている。たとえば冒頭場面は、離婚調停の結果、三か月に一度、実娘との再会をゆるされる信が沙織と赴いた遊園地の、パステル調に色分けされた舗装地面。そこを人らの足が往来し、カメラの手持ち移動ののち信と沙織の足をとらえると、彼らの上体にティルトアップされる。あるいは信のマイホームは山の中腹斜面が開発された新興地にあり、彼は大規模な斜行エレベータに乗り、しかも高架歩道を経由して、清潔だが書割のような自宅に帰る。娘たちへの土産のケーキを携えて。信と地面の関係性をかんがえてみると、どこかその足が完全に現実に着地せず、夢のなかを浮遊しているようにみえるのは、三島監督がえらびぬいた配剤なのだった。
 
二家族の融合が大団円になるのかと予想しつつ(原作である重松清の同題小説は未読)、最初、「この作品に乗れない」という危惧が起こったのは、田中麗奈扮する現在の妻・奈苗の造型からだった。家庭依存、幸福依存、家族自慢を体現する自己中心的な専業主婦の彼女は、ふわふわと速いうわついた発語を家庭内でくりかえす凡庸な女にしかみえない。ところがそれも「配剤」だった。前述したように「それ以前の家庭」が回想されると、酷暑の夜、アパートを舞台にした彼女への陰惨なDVがしるされる。だから彼女は痛ましくも「人生の奪回」に臨んでいるのだとわかる。
 
家庭優先で仕事に不熱心だった信は勤め先の営業不振にさいし関連会社の配送倉庫へ「出向」を命じられる。あきらかに向かない仕事を強要する会社からのリストラ政策だ。彼はその事実を当初、妻に秘匿する。倉庫は宏大で番号別に細かく棚に「番地」がついており、おおきな荷台を転がしながら、コンピュータ接続された発信機の指示どおりに注文商品を積んでゆかなければならないが、勝手通じぬ彼は契約社員よりも作業効率がひくい。はじめて「現実」をあるく設定がこのように舞い込むと、それは無惨な疎外態をしるすのだった。これも「配剤」。ともあれ奈苗の「前提」と、信の現在時の仕事のリアルな非人間性、これらが拍車となって、作品にみるみるひき込まれていったのだった。
 
いくつかの「場所」を便宜上しるしていったが、むろん作品が描写する空間は、信と奈苗がいとなむ、ありきたりに清潔化された家庭が中心となる。ほとんど規格的区分と仕切りしか見いだせない非・映画的な空間内に、三島は境界と固有地とを積極的に見いだす。信がストレスをおさめるために煙草を吸うベランダよりもさらに重要となるのが、子供部屋と家族空間の仕切り=ドアで、さらにはその子供部屋の側面に置かれた二段ベッド、しかも姉・薫の寝床のある上部だった。具体的にしるさないが、子供部屋の入口を意味の中心にした、悲痛な名場面がのちにある。
 
信の家庭に不響をもたらしたのは、妻・奈苗が繊細さを欠く自己中心的なよろこびで、連れ子たちに自分の妊娠をうちあけたことだった。これに、思春期に入ろうとして、人生や妊娠の仕組みを理解しだしていた連れ子のうちの姉・薫が反撥してゆく。赤の他人なのに父親を演じている信を「きもちわるい」といい、さらには「実の父親に会いたい、そのもとで暮らしたい」と挑発し、ついには子ども部屋の扉を施錠可能にしてほしいと要求を増長させる。これが「よくある」家庭不和の描写にならないのはなぜか――
 
まずは同齢の娘(しかも名前は韻を踏む手前まで似通っている)――信の実娘・沙織と、奈苗の実娘・薫とに外観上の「偏差」が仕込まれている点に気づく。鼻筋が遠慮がちにとおり小鼻も華奢な沙織=鎌田らい樹は、心情発語を抒情的に増幅伝播できる典型的な「少女類型」だ。たいして、邪険さや倦怠や絶望を刻むまなざしと相俟って、ときに鼻筋のふとさに不穏な意志をひめうる薫=南沙良は、たとえばその沈黙や表情に注視を導く「映画類型」だ。どちらもすばらしいのだが(くわえてまだ邪気のない恵理子=新井美羽も)、作品は冷徹な類型学に負っている。沙織と薫の偏差は、アカデミシャンを母にもつ娘と、一介のロウアークラスの女を母にもつ娘、それら出自のちがいを残酷に反映している。
 
むろん「顔」でいえば無彩色の衣服をほとんど作中でまとう信=浅野忠信のうつくしさもおおきくかかわっている。しかもそのうつくしさは自己抑制に長けながらも神経質に人間の関係性に疲弊する者の、「二重性」と離れられないでいる。彼は作品二箇所でとうとう感情を爆発させる。一度目は前妻・友佳が無断で子どもを堕胎したと判明した回想シーンで。いまひとつは、姉のほうの継子・薫の反抗がすでに自分の修復能力、折衝能力を超えていると悟った彼が、とうとう「妊娠中の子を堕ろせ」「離婚する」「きみたちの生活費は完全に支援する」と具体性をともなって妻へ切り出すときだ(むろん観客は配送倉庫に出向され、やがては転職をしいられるだろう信の現実をかんがえるから、信の申し出が退路を断たれた不安定なものだととらえる)。この具体性が、作品の終盤のなりゆきに「どうなるのか」とサスペンス感覚をもたらす。
 
まえの父親(沢田=宮藤官九郎)とちがい、うつくしい父親をもってしまった薫はたぶん苦境に陥ったはずだ。新しい父親=他者を性的に意識しだし、それが彼女の初潮開始時期と相俟って自己の身体化に反映する。息苦しい。それは現在の継父への恋というのではなく、美醜の偏差、真摯さや人工性の偏差(実父はゾっとするような現実逃避型で無頼な暴力をほどこす「弱い」怪物だった)が配剤されるなかに自分の世界内位置があると知った、一種の哲学的な認識だっただろう。
 
なぜそこまでおもうのかというと、撮影方法が関連しているのだった。撮影はときに大胆な長回しをおこなう。たとえば信と薫の場面では(実父に会いたいという薫の申し出にたいし信が紳士的に見解を述べるなりゆきが最初だ)、カメラは薫の上体をとらえ、多く信をフレーム外の声に限定してしまう。「反応」への観察をみちびきながら、しかもそれが自然化されて「芝居」から離れてゆくのが驚異だ。それはただの「反応」というしかないのだ(たとえば二段ベッドの上にいる薫、その顔がやがて掛布に覆われて不可視状態になるように、「反応」は相手の刻々の発語からの因果関係として組織されない)。これが三島監督の組織したミザンセーヌなのだった。
 
映画史的な了解からいうと、このような俳優、とりわけ子役演出は、綿密なリハーサルを介しての一発撮りから招来される。一発撮りと限定するのは、テイクをかさねることで生じる馴化がみとめられないためだ。とうぜんジョン・カサヴェテス演出(とりわけ「家庭」を限定空間にするという意味ではたとえば『ラヴ・ストリームス』)との類縁性が意識されてゆく(しかも是枝裕和『誰も知らない』ほどの不当な強圧性は感知できない)。じっさい子役の登場するシーン(しかもそれはすべて順撮りだった)では撮影前に、リハーサルではなく「エチュード」がくりかえされたという。つまりある着眼が意図され、設定を自然化できるまで実在化の練習をくりかえすうち、演技プランのみならず科白までも変更が許容されるということだろう(作品には荒井晴彦脚本作の符牒、つまり世代意識と批評性とルサンチマンによる因果律が脱色されているが、その印象は三島監督の演出方法と相即している――人物の実在性が荒井的記号性を「食った」のだ)。
 
カサヴェテス『ラヴ・ストリームス』は、長回しを駆使、ときに本番撮影と、リハーサルの撮影とをカッティングでからませたとおもわれるが、ジーナ・ローランズとジョン・カサヴェテスは長回しで「実在性」をふくらませながらも、その実在性が奇矯さ・滑稽さと離反しない映画性にまで押しあげられてゆく。このときにパーティの開催連打、動物の跳梁といった「家屋の誤使用」、空間演出の斬新さも付帯されてゆく。カサヴェテス・メソッドは「リアル」と「アンリアル」が融解した果ての「リアル」の提示にあるのだ。『幼な子われらに生まれ』の三島有紀子監督は、演出の精度は瞭然だが、この点に到達できたのだろうか。
 
まずはストーリーラインが意想外に進展してゆく点を確認して(重松清の原作、あるいは荒井晴彦の脚本が見事だ)――「配剤」が意想外−性をさらに付帯的にまきこんでゆく点がおもいだされなければならない。信は自分の家族を、あるいはもしかすると自分の人生までも「つぎはぎ」だらけと自嘲するが、配剤の意想外はこうした人材上の「つぎはぎ」をむしろ価値化する。意想外がアンリアル、価値化がリアルだということだ。
 
継子・薫との仲が険悪となった段階で、帰宅途中の信が斜行エレベータに乗ろうとした途端、脇の階段に坐って自分を待ち構えていた実娘・沙織に出会う。観客は大学教員である彼女の育ての親がすでに余命幾許もない癌に臥していることを知らされているが、沙織はこのことにかかわる「感慨」をまとめきれず、自分の是非を実父・信に問いに来たのだった。「少女類型」らしい彼女に宛てられた場面とおもうと、ちがう。彼女は意想外をここから連打してゆく。まず実父でないから、その予定されている死に肉親喪失不安の実感がない。このとき彼女のケータイが鳴る。母親からの連絡で、その育ての父が危篤に陥ったのだ(と事後的にわかる)。
 
いきさつ上、その継父のもとに、実父の信が沙織を大至急、届けなければならない。あたりは豪雨となる。ところが駐車場に赴くと、妻・奈苗が娘のうち妹のほうの恵理子を塾にクルマで送り出そうとしている寸前だった。それで意想外の――信(運転者)、奈苗(助手席)、沙織/恵理子(後部座席、法的には義理の姉妹)という同乗者が組織される。沙織は継父を亡くす不安にはちきれそうなばかりに、眼路を大雨のふる夜の窓外におよばせている。それにたいし年齢柄「このお姉ちゃんだれ?」と無邪気に訊く恵理子。運転席から信が「恵理子のともだちだよ」と取り繕うが、やがてしつこくつづく恵理子の邪気のなさ、無辜に苛立ちをおぼえだした沙織が、自分はあなたの血のつながらない姉だ、とわずかな示唆をおこなう。混乱する恵理子。このとき当初見込まれた沙織の人格的誠実に、「意想外」が取り込まれ、緊張度がたかまる。
 
とうとう大雨のなかクルマは病院エントランスにたどりつく。沙織が実母・友佳と瀕死の継父のいる病室へと飛び出してゆく。このとき奈苗が「意想外」に出る。クルマを停めたあとどうしていいかわからない気色だった信に、あなたも病室に行くべきだと敵に塩を送るような意見をいうのだった。元妻と実娘の励起のために。信もそのことばを受けて飛び出してゆくと、またも「意想外」。廊下を先行した沙織が勢いをなくし蹌踉とあゆんでいる。その手を取り、信は病室へと導いた。やがてむすばれた手が離れ、ついに沙織は瀕死の継父の病床に打伏し、号泣をはじめる。彼女は無縁者の死を、肉親の死として了解したのだ。もともとその場にいる根拠の薄弱な信は、ロング縦構図の奥行きで、病室の扉を閉め、丁寧に辞去するすがたをとらえられる。その「消え」自体がうつくしい(病室の廊下――娘の手をとってなかへ入るという詳細は、その後、奈苗の分娩完了時に、信と薫のあいだで反復される)。
 
この作品の法則では反復は治癒の内実として組織されている。「意想外」の反復と同時に、「ふさわしくないその場から辞去するすがた」が、今度は宮藤官九郎演じる沢田に反復されるのだ。前段の説明から。実父・沢田との再会を切望主張する娘・薫の要求を継父・信は実行に移した(その前に信から沢田への折衝がふたつある――ひとつは沢田が現在、給食作業員として働く自衛隊基地の金網フェンスの前で、もうひとつは沢田がカネをふやそうとする競艇場内で――流れ板前というより崩れ板前の末路といった風情の沢田は、奈苗のなにが厭だったのかを問わず語りするが、それはたぶん信の腑へとリアルに落ちただろう)。作品の進展のなかで強度をもったのは、むろん前述した回想のDVシーンだった。赤子で泣きやまなかった恵理子、妻だった奈苗、そして沢田で構成されるその回想に危うく収まった幼年の薫は小学校低学年とおぼしい。「実父に会いたいというが、実父の背徳と暴力と情けなさの記憶」を彼女はもっているのかがサスペンスとなる。「ここではないどこかへ行きたい」という一見の希望は、「そんな場所は存在しない」という絶望にも裏打ちされているのではないか。
 
信はとある日曜、とうとう育ての娘・薫を、実父・沢田のもとに送り出す。薫ひとりだ。再会を期された場所は府中にあるデパートの屋上。ここから「意想外」が起こる。奈苗が、娘の出発からだいぶ時間が経過したが、薫と沢田の再会を確かめに行こうといいだすのだった。ここからは「意想外」の連続。府中のデパートにたどりつくと、奈苗は、デパートに入るのは信と恵理子だけでいい、自分は車中で待つ、という。信と恵理子が屋上に行くと、所在なげに沢田「だけ」がベンチに座っていて、薫が来訪を断念した事実が判明する(彼女には父のなした母親へのDVの幼年記憶がやはりのこっていたのだ)。「このおじちゃん、誰」の問いに、またしても「恵理子のともだちだよ」とおなじ答が反復される。
 
とりあえず沢田と話をするために、恵理子を幼年用のゴーカートに送り出す。沢田の気弱な述懐。幼年の薫がガチャガチャを好んだのだけをおぼえている。妹の恵理子のほうは顔もおもいだせなかったと。そこは薫不在でも沢田と恵理子という実の親子の再会をも意味していたのだ。ゴーカートは百円の料金投入で運転可能となる仕掛けだったが、百円分が切れると、恵理子は追加を催促しはじめる。咄嗟に小銭を出せない真に、沢田が百円を渡す。まるでガチャガチャをまえにした幼年の薫を、そのまま連続させるように。さらに信には、用意していた薫への土産を託す。ごわごわしたおおきな紙袋。小六ってどのくらいおとなびているかわからなかった。この土産は子どもじみていたかもしれない。小六ってどのくらいの背丈なんだろう。信はたまたまデパートにいた女の子たちをしめし、あのくらいですよ、とこたえる。あんなにおおきいんだ、といったときの坂口に、なにか透明な無力感めいたものがある。それによってそのまえまでの坂口の悪びれや威嚇性がすべて脱色された。そのなりゆきも「意想外」だった。
 
デパート屋上、その場の意味が恵理子にはむろんわからないし、薫が不在ではその場の「意義」もない。ところが映画的には、惨めさのなかにはじめて悔悛とわずかな郷愁をただよわせ、しかも自分の信念まで気弱に漏らす、所在無げな沢田=宮藤官九郎の風情に重大な意義がある。曇り日の昼、貧しい遊具のならぶデパート屋上をとらえる穏当なカメラワークにとって、主眼となるのは無為の空気の転写だ。そこを幼児・恵理子のあやつるゴーカートがたよりなげに走る。うごきと対象の多元性。それは沢田、ひいては信の心情の多元性と相即している。映画は途轍もない真実をあっさりと告げる。「多元性のなかにあるものは、それ自身が真実で、だからこそ救抜される」と。これが終盤の信、薫へ救済のひかりをあたえるのだ。だからこの映画は「父親たるべき者が父親へと自己生成する話」に括りきれない。もっと存在の本質に肉薄している。
 
「ふさわしくないその場をしずかに辞去する動作」は、今度はデパート屋上の沢田に反復される。しずかな「消え」。ところがさきの病室での信にたいするショットをカメラは反復しない。屋上の出口扉にむかう沢田に、送り出す気色、しかも躊躇からやや遅れて信が画面手前から同行すると、沢田があっさり扉のほうに折れる。まだ屋上でゴーカートに興じている恵理子をもつ信をのこして。ちいさいけれど、躊躇のない沢田の方向変更の潔さがすごくかなしい。カメラはそれらを横に視野を移動させてとらえたのだった。
 
信と継娘・薫の軋轢が作品のしめす最終局面でどうなったのかは言及しない。多元性をもつ者は、その多元性ゆえにあらかじめ救済のひかりにつつまれる、とだけしるしておこう。この点にかんしては、信の現在の妻・奈苗にも作用されていた。彼女は妊娠中毒症を克服しての出産により救われるだけではなかった。ほんの一瞬の、ある一場面が救済をなしたのだ。
 
もともと信が同情以外に連れ子をもつ奈苗に惹かれた理由がずっと進展に稀薄だった。それが――奈苗が薫の反抗に疲弊しきっていたとき、帰宅で最寄の駅に戻ってきた夫・信をケータイで呼び出した、とおぼしい。「おぼしい」というのは、次のジャンプカットでカラオケボックスのガラス扉ごしに、怒りをぶつけるようにロック色のつよいJポップをパンキッシュに唄いあげる妻をみて、信の顔が、幸福そのものといった喜色でいろどられるのを観客が目撃、事態が判明するためだ。「家庭依存症」と要約されがちな奈苗にも感情の奔放な多元性があった。映画はそれまで描かなかったが、それがたぶん出会いのときに生活階層がちがっても信が奈苗に惹かれた理由だった。そのことを一瞬の大技(たった1シーン)で映画がしめした。撮影中、創意的に科白やシーンを変更したと伝えられる三島有紀子監督だが、この奈苗のカラオケのすがたが、もともと荒井晴彦の脚本に存在していたかどうかを知りたい。
 
――九月六日、札幌シアターキノにて鑑賞。本作のモントリオール映画祭での審査員特別賞受賞が前日に報じられたためか、客席は映画好きの中高年女性一人客を中心に、補助席まで埋まる満員だった。
 
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