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2017年08月27日19:20

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黒沢清・散歩する侵略者・上

 
【黒沢清監督『散歩する侵略者』】
 
「他の動物にたいし、人間は二足直立歩行する独自性をもつ(それで頭脳と感情が発達した)」――このたんじゅんな事実を映画のなかにどう中心化させるかが、『散歩する侵略者』を撮るにあたっての黒沢清監督の着眼だっただろう。前田知大(劇団「イキウメ」主宰)の作・演出の同題舞台が原作。ただし観劇したわけでも脚本を読んだわけでもないが、なにしろそれは舞台だから、その空間限定性のなかで「歩く動作」をさほど前面化することは困難だろう。つまり「演劇→映画」の変更は、「歩行」の点綴を頻繁にすることでまずはなされたはずなのだ。
 
速「歩」調で断絶を連続化させるアヴァンタイトル部分が詩のようですばらしい。水槽をおよぐ金魚。金魚すくいをするしろく華奢な手。その官能的な様相が黒沢『アカルイミライ』でのクラゲの水槽をおもわせる。すくいあげた金魚をビニール袋中の土産にして自宅へ帰るセーラー服姿の少女。スカートの裾下だけの(つまり歩行を露わにしない)画角からしろいひかがみのきよらかなエロスが強調される。このとき寓意的機械的といえるほどに歩行エキストラが空間の深浅を縫っている。あるかなきかの時間経過。少女の帰った家屋の玄関から中年女が一瞬恐怖の形相で飛びだすが、みえない手にふたたびひきこまれる(玄関から飛びだす者を全貌のみえない手が家屋内へ暴力的にひきもどす瞬時のシーンは、塩田明彦『害虫』、万田邦敏『接吻』にもあったが、それぞれの角度がちがう。塩田=水平ロング、万田=俯瞰、黒沢=斜め)。
 
室内。血まみれの惨状。のちの進展からわかるのは、そこで中年の男女がからだをバラバラに惨殺されているらしい(狼藉が過ぎて現状の画面には何があるのかわからない)。ゆかの血だまりに先刻の金魚が撥ねている。少女の手が血の感触をたしかめ、しかも指に付着したその血液は舐められる。時間経過。少女がセーラー服を血まみれにして路上をあるいている。ぎくしゃくしたうごき。とりわけむずがゆく不機嫌に上体をひねらせて、歩行そのものが自分に馴染まない窮屈なようすがつたわってくる。ロングの正面縦構図。クルマがゆきかい轢かれそうになっても少女は一切頓着しない。それでハンドルを切り誤ったクルマ二台が少女の背後で衝突を起こす。そこにタイトル「散歩する侵略者」。カットアウト。
 
タイトルからすると、黒沢の本作でもドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』に代表される宇宙人侵略物がイメージされるだろうが、黒沢は得意の恐怖演出を基本的にほぼ封印している。シーゲルの歴史的傑作にあった、閉域性によるサスペンス演出も、「映画史上最も怖い接吻」もこの映画にはない。ただし同様の、異様な説話効率はある。ところがそれは原作が演劇であることから科白の饒舌、その痕跡をも残存させていて、奇妙な不統一性をかんじさせる。ともあれシーンは演劇的桎梏をとりはらい、映画的に跳び、長いレンジでの空間閉塞は回避される。なにもかもがざわざわした混淆的な感触だ。
 
この映画のジャンルはなにか。宇宙人侵略SF。侵略者と通常人間との会話の齟齬をうちだすコメディ。その会話が人間の条件にふれることからの哲学映画。宇宙人侵略によってウィルス感染をもたらされたと誤認する人間側から生ずるパンデミックパニック映画。生起しつつある事件の本質に迫ろうとする無頼なジャーナリスト桜井(長谷川博己)が少年少女の姿をした侵略者と放浪をともにすることで印象される疑似家族(父子)映画。厚生労働省・警察・自衛隊が結託し、侵略者と人間のつがいを情報戦により追走してゆく陰謀サスペンス。
 
あるいは百年たかだかで決定される「世界の終わり」を三分間に圧縮させたらどんな感慨がうまれるかという挑発的な終末映画(黒沢はすでに『回路』を撮っている)。そして主体となる夫婦=松田龍平/長澤まさみが最終的には愛を「彼方」にどう伝播させるかという、観る者が気恥ずかしくなるほどの恋愛=愛情映画(これについても黒沢はすでに「愛の探索」を主題にして『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を撮っている)。
 
いずれにせよ多様なジャンル意識が、ことあるごとに画面連接に侵入し、統一性をずらし、そこでの脱臼感覚がわらえる。リズムが可笑的なのだ。俳優たちの演技がすべてノンシャランで、深刻な場面なのに重みを欠いているのも良い(このことで喜劇的「聡明」が強化される)。つまりノンジャンル映画という映画ジャンルがあるのだ。これとて黒沢清はすでに同様の『ドッペルゲンガー』を撮っている。ただしこの映画に、統一的なジャンル名をあえて付すこともできるだろう。それが「歩行映画」だった。だから先刻例示したアヴァンタイトル部分で中心となるのも、歩行動作を身体に初めて装着したときの存在の違和感を正面ロングでしめすショットだった。この動作の「質感」を過たずつたえた「立花あきら」役=恒松祐里の、映画的奇蹟ともいえる身体的優位性と魅力についてはのちほど別段で考察する。
 
「歩行映画」――なるほど俳優たちは「歩く」。それは通常人間役でも侵略者役でもかわらない。歩行は時間の物差しになり、映画の進展的実質と混淆する。しかも会話のような意味加算の不純がなく身体的感触だけをつたえる。映画が純化されようとすれば歩行描写が特権化されてゆくだろう(むろん完全には不可能だが)。黒沢清は人物たちの会話の応酬を科白の意味単位の切り返しにして事務的に撮る退屈をきらっている。たぶん動作だけをつないでゆくことで「人間の寓意」を撮りたいのだ。数人の人間が地平線上のロングで会話なしで互いになにかをしている影絵を全篇連続的に撮り切ったら、おそらく彼の作家的欲望はみたされるだろう。
 
アヴァンタイトル後、最初のショットは、手前、逆さにもたれた雑誌誌面ナメの加瀬鳴海=長澤まさみの、困惑と侮蔑と怪訝の表情。たいする夫・真治=松田龍平との切り返しにすぐ変じ、第三者の医師も布置されて、作品の発端がしるされる。夫・真治が数日間の行方不明ののち発見されたこと。認知能力がいちじるしく欠落してしまったこと。とりわけ初歩的な人間のやりとりに支障を来していること。真治の発語からは、とぼけられ、バカにされている感じもある。のちにわかるが夫の情事の事実もつかんでいるから、直近の過去の消去は彼女にとって安定がわるい。医者はショック症状か若年性アルツハイマーかと原因を推測するがあまり深刻感がない(こうした喜劇的「欠落」に注意)。怪訝なまま鳴海は真治を黄色いクルマを停めた駐車場へと連れ帰る。このとき真治の歩行動作が、まるで機械パーツが分解するように段階的に瓦解してゆく。バカにされているのかとしかとうぜん捉えられない鳴海は、叱りつけ、夫を支えて立たせる。ただし観客はアヴァンタイトル部分をすでにみている。歩行が身体装着によってようやくなる危うい何かだという点はすでに強烈に反復されているのだ。
 
この映画に『ボディ・スナッチャー』的恐怖が欠落している理由は、この「装着」の様相に負っている。宇宙人はひそかに人間を侵食し、存在を乗っ取るのではない。のちにわかるが宇宙人は「周囲すべて」ではなく個体明示数としてはわずか三人だし、みずからが人間を調査するための「ガイド」となるべき者には明示的に自らを宇宙人と言明し、存在にはいりこむのも個体利用のためで、はいりこまれた者が固有にもつ記憶まで「装着」する。ただし人間の多くもちいる初歩的な概念がわからず、それを偶有の対峙者からさらに奪い取ろうとするのだ。それすら奪取というより装着にちかい。だから恐怖感覚が低減する。
 
もっともそれはうわべだけのことで、やがてわかるのは概念を奪われた側の人間が、概念欠落によっていちじるしく劣化することだ。人格が変わり、概念を奪われすぎると廃人化する。これがウィルス感染と間違えられる。しかも人間の使用する概念が収集されたのち、その結果は彼らの故郷へと通信機で送られる(彼らは地上で、かつ自前でその通信機を創出しなければならない――そんなとぼけた設定もある)。それが予備認識どおりならば、地球から人間がすべてきえるだけのことだ。侵略は波のように渡来する。それが恐怖かどうかはひと次第だろう。黒沢清自身がたぶん恐怖をかんじていない。うつくしさはおぼえているだろうが。
 
この映画に恐怖感覚が基本的に欠落していることは、最も恐ろしい詳細が会話で間接的に語られるだけの処理をなされてしまう点にもあきらかだろう。アヴァンタイトルの映像のながれに秘められていた意味は、のち、ばかでかい放送局支給のワゴン車を運転する「ガイド」役のフリージャーナリスト桜井、その助手席にいる天野(高杉真宙)にたいし、後部のあきらにより、「失敗談」としてなんと自嘲的に語られてしまう。論旨をより説明的にして内容を転記しよう。
 
地球に来て勝手のわからぬ自分(あきら)は当初金魚にはいりこんだ。違和感をおぼえた。自分は金魚すくいの女子高生に「ポイ」で掬われ、居場所を移した。虎視眈々と寄生先を乗り換えようとしているうち目についたのが一家の主人。乗り換えを実現すると一家の妻が大騒ぎして逃げようとしたので、それを引き戻し、勢い余ってからだをばらばらにした。人間の内部構造をさらに知りたくなり、みずからの腹を手で裂き、はらわたを分解的にとりだしているとなぜか意識が遠のいてきた。やばいとおもったとき、部屋に自分を掬ってくれた少女が入ってきたので、今度はそのからだのなかに入った。――いま綴ったことはおぞましさの一語に尽きるだろう。それをあきらは車中で、淡々と、省略たっぷりに、わらいのめして語ったのだ。
 
この映画で最も歩行に感情を要求されているのが、鳴海役の長澤まさみだ。彼女は諸感情の伝達を歩行でみごとに実現した。なにしろ彼女はイラストを描くデザイナーの仕事に就きつつ、とつぜん精神に変調を来した夫の勤め先に退職届を出し、「人間」学習のためTVのザッピング視聴を一日中つづける夫をケアしなければならない。出勤にさいし怒りながら玄関を出ての「歩き」。家を出ないでと釘刺しておいたのに帰宅したら夫が行方不明になっていて、外に出て小走りに夫を探す不安な「歩き」。「宇宙人」を自称するまえの夫の浮気が心のこりながら、「ガイド」としての自分への全幅の信頼にふと心をゆるし、夫と同道するとき往年の幸福な記憶をよみがえらせているあまい「歩き」。尾行者が数多くいると直観、知らぬふりで歩いたあと、角を曲がった途端、夫の手をとり、それまでの「歩き」を増幅させてみせる危機的な「走り」。
 
この映画のメインキャストたちはみな脚の線のきれいな男性陣=長谷川博己、松田龍平、高杉真宙で揃えられているが、女性陣では繊い脛(それはたえず素早くうごく)の恒松祐里と、そこにやや女性的なふくらみをおびた長澤まさみとが好対照となる。ちなみにいうと、実は女優を魅惑化することでは定評のある黒沢清が、長澤まさみをとてもうつくしく画面に定着している。額を出したワンレンの髪型に、ややほそみをおびた顔の輪郭があり、しかも顔色が聖なるしろさをおびて、造型の女性的な落ち着きをきわだたせている。まなざしにこれまでの長澤に多く印象された邪険さや驕慢がまったくとりはらわれた浄化がおこっているのだ。それで身体性の全体までもがなつかしさの文脈にはいる。
 
対峙する「人間」の歩行についてもあきらかにクレッシェンド型の増長が作中、意図されている。当初はアヴァンタイトル部分に代表されるように、無関係な住民の歩行が機械的に、しかもどこか謎めいた作為性をもたらすよう画面のここかしこを織り上げた。通行エキストラの無意味性の運動は、やがて有意的な尾行者の集団となり、尾行の気配が見事に画面に点在的に表象される。対象=加瀬夫妻が逃走しだすと、集団疾走が組織され、彼らは動勢と区別がなくなる。
 
あるいは主治医から真治の精神的退潮がウィルス感染の結果だという連絡が入り病院へ夫婦そろっておもむくと、院内はパンデミックパニックの様相をしるし「感染者」家族の長蛇の列ができていて、その列を乱すように精神変調者が「歩き」「走り」、自衛隊服と感染防備服の列が「縫い」、さらに新患関係者や厚労省関係者が入口から危機的に「侵入」するなど、歩行の増幅的諸形態が多様な運動性をともなって集中展覧される。このとき芦澤明子のカメラが満を持したように回転運動をおこなう。
 
(つづく)
 
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