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2017年07月19日08:15

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ドラゴン・タトゥーの女

 
本日(7月19日)18時半からの公開講座最終回、そこでの質問アワーのため、見逃していたデヴィッド・フィンチャー監督『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)、それと、そのオリジナルだったスウェーデン映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009、ニールス・アルデン・オプレヴ監督)をいまごろになって比較鑑賞していた。フィンチャー版のヒロイン、ルーニー・マーラから、『キャロル』のルーニー・マーラのおもかげをさぐるのが目的だったのだが、『ドラゴン・タトゥーの女』にかんしては、スウェーデン版よりもフィンチャー版の圧倒的勝利、と映った。
 
禍々しさ、カット転換速度が現在のハリウッド話法のなかで極度に練磨されているほか、フィンチャー版には説明過多に陥らない知能のたかさを観客に預けている英断もあって、結果、人間主義、表情主義が排除され、同時に謎解きも実証的ではなく、真の暗喩解読のように徴候的になっている。これらを実現しているのがセットや「66年と現在」という時空偏差のはらむ奥行きの破砕、捜査過程で入手した写真のパソコン画面上の表情、さらには007=ジェームス・ボンド俳優ダニエル・クレイグにたいして情報窃取者から協力者となるルーニー・マーラの徹底的な「無表情」だということが理解されてくる。フィンチャー版ではアレゴリー特有の「模様」がなまなましくうごき、それが蠱惑を形成しているのだ。
 
スウェーデン版の「リスベット」役ナオミ・ラパスは凡庸な顔をしている。それにたいしフィンチャー版の「リスベット」、ルーニー・マーラは、映画的了解を越えた「X」として画面に登場してくる。オートバイをあやつる速度と、発言の無駄のなさだけが最初の属性で、スウェーデン版から継承増幅されたパンキッシュな現れ――眉と鼻と唇のピアス、尖らせた髪、色をつぶされた眉、黒い衣裳によって、「眼」だけが顔の徴候となるのだが、その眼が感情をいっさい発露しない。現れた「顔」の骨格、その峻厳な物質性から観客は「幼さ」を抜きとろうとするが、それでも身体のつくりあげる可視性を超えた速度により、骸骨にちかい残像が画面におどっているのみと感じる。ところが「肉」が開示される。彼女にたいする後見人の非道な性的暴力によってだ。口淫強要、肛門へのレイプ……「逆転」だらけのヒロインの造型に、さらなる意味上の「逆転」が関与してゆく。これもまた身体を基底材にしたアレゴリーの舞踏としてしか受け取れない。
 
フィンチャー版ではスウェーデン版よりももっと緻密に「顔」が位階化されている。スウェーデンの大財閥家族中、容色と知性を誇った美少女「ハリエット」の失踪の謎を解くよう「ミカエル」=ダニエル・クレイグが依頼されるというのが物語の基線で、その線上、写真や回想で「66年の顔」がかずかず現れる。そのなかから残存ナチのシンパやユダヤ人の「顔」を見抜くという「秘密」への穿孔さえ観客はしいられるのだが、いっぽうルーニー・マーラの「顔」にたいしては深さへの態度決定ではなく、浅さへのそれにみちびかれるのだ。無表情のその瞳から、深謀、瞋恚、あるいは愛を見抜く倒錯へと、観客は次第に捉われてゆくだろう。そのとき「痩せている」という設定ながら身体能力が屈強で、おんならしい乳房をもつルーニーの、抜群の知能と離反する「脆さ」といったものにやるせなさをおぼえてゆくことになる。これはミステリー映画であると同時に、「少女映画」なのだった。
 
見つめ返される「期待」を裏箔にして相手を見つめる『キャロル』のルーニー・マーラは、ウブさのなかにとろりとした淫蕩を漂わせ、それがレスビアン恋愛映画にリアリティをあたえていた。ところが伝説的なラストシーンで、相手役のケイト・ブランシェットとともに、表情上の「微差」こそが真情を告げる境地にまで達する。その「微差」はすでに『ドラゴン・タトゥーの女』の彼女、とりわけその瞳にもあったのだった。ただし『キャロル』の微差がメロドラマを「織る」のにたいし、『ドラゴン・タトゥーの女』の微差は動物的アレゴリーを「織りあげる」。すばらしい原作にたいし、常識的な人間主義ドラマをくりひろげたスウェーデン版にはこの戦慄がない。
 
まったく顔の「地」を封殺されてしまったようにみえる『ドラゴン・タトゥーの女』のルーニー・マーラはラストちかくで救済される。ジャーナリスト、ダニエル・クレイグの汚名を決定した大企業の不正資金供与事件(クレイグはその究明に失敗するが、その失敗にみちびいたのが当初のマーラのハッキングだった)、その事件に、「ハリエット」失踪事件の謎を解いたあとふたたび挑んだルーニー・マーラは、ロンダリング済だった不正資金をスイスでの口座操作により略取する。捏造パスポートによって海外渡航した彼女は、顔のパンク性をすべて解除、金髪ボブの謎の令嬢へと変身する。このとき一瞬よぎる「放心」の表情に、『キャロル』の彼女が予告されることになったのだった。そう、『キャロル』の彼女をおおっていたのも「放心」のうつくしさだった。
 
「顔」の蠱惑的「代入」はもともとフィンチャー版『ドラゴン・タトゥーの女』の「主題」だった。とうぜん先行したスウェーデン版にたいし、役柄のすべての顔が入れ替わっている。あるいは謎の中心を形成した美少女「ハリエット」も、スウェーデンからロンドンに移住していった従姉の顔へとあいまいに収斂してくる(スウェーデン版にはこの機微がない)。ダニエル・クレイグにも「顔」の変貌が用意されている。とりわけクライマックス、死へと近づけられる「いたぶり」のなかで窒息をくわだてられ、ビニール袋につつまれるその顔の、空間逼塞とその変型がおそろしい。彼はそのまえ、威嚇のための謎の猟銃により、こめかみを銃弾にかすめられていた。ほうほうの態でもどると、出血おびただしいその傷をマーラにより縫われる。このとき流血と皮膚の「縫製」に昂奮したマーラが自発的にクレイグに騎乗位する最高に官能的なシーンがある――まるで神代辰巳『棒の哀しみ』の名シーンを圧縮するように。ここにもさまざまな「代入」を感じてしまった。
 
『ドラゴン・タトゥーの女』のルーニー・マーラにあるのは、機能的な義憤、機能的な愛だとおもう。交換可能という意味で、どちらも最高の行動原理ではないか。となると、わずかに人間性をにじませるそのラストシーンが「微妙」となる。
 
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