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2017年06月12日06:55

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メッセージ、あなたの人生の物語

 
きのうは朝日新聞用にテッド・チャンの短篇集『あなたの人生の物語』評を書いた。とうぜんドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『メッセージ』公開の余波を受け、増刷を繰り返している同書(ハヤカワ文庫)へのオマージュとなった。
 
それにつけても、短篇「あなたの人生の物語」を換骨奪胎した『メッセージ』の脚色はみごとだった。短篇自体は、人生の諸局面にいる娘へのひとりの女性言語学者の呼びかけ、それと無媒介に交錯するエイリアンの表義文字の読解過程、この二元的構成になっていて、むしろぶっきらぼうな作りともいえる。映画はラグビーボールをまふたつに割ったような形象の「宇宙船」(それは地上数メートルのところに浮かんでいる)への乗船をつうじ七本脚のエイリアンとファーストコンタクトするヒロイン、ルイーズの行動の積み重ねにより、話を見事に線形化した。そこでは火星人ものとちがい、他者は他者のままだ。しかも宇宙船のなかは腸管のような空洞で、その外観と矛盾がある点もすばらしい。宇宙船内はやがて鉛直軸の弁別が無意味化(無効化)される。無重力なのではない。重力が多方向・無差別に遍満している空間で、それゆえに鉛直性が障碍なく水平性になりかわるのだ。
 
映画の冒頭は、娘への呼びかけをつうじ、その娘と「体験した」日々が間歇的につづられてゆく。そののち作品は「現在時」に到着した気色となるのだが、学生世代の娘を失ったとつづられた割に、ヒロインである母、ルイーズ=エイミー・アダムスのルックスが若い。これがまずは終幕の大逆転への伏線となる。あるいは表義文字の読解がとつぜんなされ、「意味」が字幕表示される奇異もまた伏線だった。それらを観客は、過去と未来が同在するエイリアンの書字=意味体系の影響を受けた、未来から現在時への陥入として理解してゆく。かつてあったものは、いまもこのさきも永遠に具体性として身体のまえに存在する(そうなるとたとえばセックスのよろこびは相手と別れたのちも生涯つづくことになる)。さらには中国の武官へのヒロインの接触でも、武官の亡妻にまつわる知りえない過去が、作品の現在時に陥入してゆく逸脱を観客は認識することになる。
 
短篇「あなたの人生の物語」ではエイリアンの表義文字は、線形の交錯としてしるされていた。映画はそれをおおきく改変した。あたかも水中に吐き出されたイカ墨のような勢いで、しかもそれが円周(細部はもつれている)をかたどる水墨状の軌跡として「ぽわっと」現れるのだ。円そのものに永劫回帰が潜在しているほか、もともと漢字という表義文字をもつ中国文化への、すなわち中国系米国人テッド・チャンの出自への、敬意がそこにある。ただしそうとらえるためには前段が要る。じつは幼年時の娘の発語・行動はエイリアンたちの哲学とふかく同調しているのだが、そのなかの逸話に「ノー・ゼロサムゲーム」を母親に問うくだりがある(原作にもある)。個々の勝敗が相殺され総和がゼロになるゼロサムゲームの風土ではなく、すべてが勝ちをしるしながら総和が計測されえないノーゼロサムゲームの概念はそれじたいが道教的で、それでこそ円は十全と同時に無を含意するのだ。映画はテッド・チャン以上の「形象」の選択により、エイリアンたちの哲学を段階的に観客の身体に理解させてゆく。卓抜な音響設定がその導きともなっている。
 
それにしても――単位的な一字ではなく、いくつかの字を連鎖させてゆく書字行為にあっては、たとえ語順が自由であっても、文字同士の「差異」により意味が形成されてゆくしかない。ところが映画『メッセージ』では、エイリアンの円周的な「字」、そこに未来と過去がひとしく侵入した一世界が統一的に表わされていると定義される。むろん意味はまず時間それぞれの差異を前提にして、書字はそれこそを空間化するものだ。エイリアンの文字は過去と未来の同時化により、現在が陥没した無意味しかつくりあげないのではないか。その意味で原作者テッド・チャンには有意の極致=永劫回帰にかかわる矛盾撞着があることになる。たとえば『差異と反復』のドゥルーズは同反復がそれでも差異をしるし、それが「いつもおなじ」なことの強度が永劫回帰の本質だとした。あるいはラブレーを讃えたバフチンは、より人間的な農耕的時間の循環を永劫回帰の本質にみていた。つまり娘の名HANNAHが正順読みでも逆順読みでもおなじになるという可逆性のみでは現在時の無化は達成できないのだ。
 
言語によって意味の特性が形成されるという常識を覆し、特性は言語形態の質そのものから招来されるとする考えを「サピア=ウォーフの逆説」という。短篇「あなたの人生の物語」も映画『メッセージ』もこの考えにもとづき全体が作劇されている。ところが過去と未来の現在時への同時陥入による無差異性を、ヒロインの世界観に注入してゆくこれらでは、「未来をおもいだす」ことの情緒性が観客の身体に自然接木されても、差異体系=ストーリーでは自身を記述できないというアポリアにさえ陥ってしまう。さらには、メッセージはメッセージであるかぎり「伝わる」というメッセージ論は果たして本当なのか。たとえばアメリカ先住民の哲学を最深部に刻印した往年のショーン・ペン監督『インディアン・ランナー』では「メッセージは伝わらない」という深甚なメッセージを貫いていた。あるいは伊藤大輔監督『下郎』ではメッセンジャーは己を殺せとのみしるされた封書を携えて放浪するカフカ的不条理を負わされていた。むろん「己を殺せ」というメッセージをふくんだ表現は、究極的には実現不能となるしかない。
 
けれどもテッド・チャンにあるのは、同時に砂漠宗教的な苛烈さなのだった。天に無限に伸びようとするバベルの塔、その形状と空間性を、詩的な矛盾を孕んだ修辞でしるし、言説の有効性を内破させた短篇「バビロンの塔」のすばらしさ。ところが、それはやがて天上と地上の等号化という結末により、やはり物語上の円環に帰着してしまう。
 
そうした彼の奇想の限界をつきやぶる好短篇が「地獄とは神の不在なり」だろう。脚のないヒーローとヒロインがつかず離れずの関係で関わりあうこの短篇では、脚の喪失が恩寵であり、脚の再獲得が失寵であり、天使の降誕が砂漠への落雷に比すべき災厄であり、失った伴侶のもとへ自殺でゆけなくなることが地獄から天国への分節化だというような倒錯神学が語られてゆく。もちろん災厄まみれの日本では、たとえば東日本大震災のただなか、割れる空に幾柱かの天使を視たひともいるにちがいなく、神学は脱神学化してこそ神学だという逆説も行き届いているだろう。
 
最後に報告。北海道新聞のこのあいだの土曜日の夕刊に、ぼくの「サブカルの海 泳ぐ」の最新回が載りました。あつかったのは、これほど面白い音楽情報バラエティは空前絶後とおもう「関ジャム完全燃SHOW」です。
 
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