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2017年04月09日15:52

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イーストウッド漬け

 
あすからのクリント・イーストウッド研究の院ゼミにむけて、ここ数日間、イーストウッド漬けだった。記憶のあやうくなっているところを補正してゆくと、イーストウッドの、ソンドラ・ロック時代が生々しくよみがえった。
 
イーストウッドの愛人として衆目の一致していた女優ソンドラ・ロックは、70年代末から80年代初頭にかけ、イーストウッド映画の多くに起用されたが、日本では――おそらくアメリカでも――あまり人気がなかった。色白、小柄、「おびえたひとみのような」までをふくめて、知的でつめたく鳥に似た神経質な風貌。イーストウッドはあきらかに嗜虐的に彼女を画面で蕩尽している。『アウトロー』や『ガントレット』では彼女にたいするレイプ未遂シーンがあり、そこでロックのゆで卵のようにつるりとした白磁の裸身が、ひつよう以上に画面でひんむかれるのだ。冷感症の予感もある。
 
イーストウッドの193センチの長身に帰属しきってしまうロックのからだの小柄さ。それをイーストウッドは、なんとアメリカ映画の遠近をしるす消失点にした。ソンドラ・ロックほど、イーストウッドに「ジャンル映画」への欲望を掻き立てた存在はいなかったかもしれない。
 
『ガントレット』は「巻き込まれサスペンス」を祖型にもちながら、呉越同舟の道中物=キャプラ『或る夜の出来事』を髣髴させるスクリューボール・コメディともなり、しかも救急車、パトカー、貨物列車、バスを乗り継ぐ「乗り物乗換え」映画になる。ラストの、バスの市庁舎にむけてのゆっくりとした走行は、速さと遅さの弁別を無化するイーストウッド特有の速度の質を画面に記載している。
 
『ブロンコ・ビリー』は「西部劇の挽歌」をキッチュさで満載しながら、これまたイーストウッド=ロックの相愛成立の過程がスクリューボール・コメディ的だった。むろん「仲間」の結束もハワード・ホークス的。しかも満を持して使用される無限ともいえる星条旗が精神病を内包した皮肉なアメリカ讃歌ともなる。能天気なジャンル映画法則が高度な批評性と合体している。ソンドラ・ロックの役柄の高飛車さは、痛快に懲罰され、観客はそれにとろける。そこにマチズモもあるが、同時に「挽歌的」だった点には注意が要る。
 
作家映画時代に転じる前の「ジャンル映画」時代、その豊饒=完成形をイーストウッドに導いたのは、たしかにひ弱い女優・ソンドラ・ロックだった。仮定で物をいわせてもらえれば、彼女に、キャスリーン・ターナーやキム・ベイジンガー的なタフネスがあれば、その後のイーストウッド=ロックの泥沼の法廷闘争などありえかっただろうし、「ジャンル映画」時代のこの最後の発火が、これほどふくざつな感慨をもたらすこともなかったかもしれない。ソンドラ・ロックにより、映画の中心にはよわさの焔がゆれている。イーストウッド映画のアメリカ性のルックが、ストーリーと配役と撮影と編集にあるのはむろんだが、この時代は、ソンドラ・ロック的な白い誤謬が、映画に奇妙な遠近をあたえているのだ。
 
イーストウッドとジャンル映画というなら、フィルム・ノワールについても考察されなければならない。「女性」から懲罰されなければならないオブセッションをもつイーストウッドは師匠ドン・シーゲル監督『白い肌の異常な夜』、イーストウッド初監督作『恐怖のメロディ』で、それを奇妙に発現してゆく。一方で『ダーティハリー』シリーズでは、コミック的な軽快さながら、イーストウッド演じる刑事ハリー・キャラハンと凶悪な犯人とが同型になるおそれについても叙述してゆく。暗い画面。それがイーストウッド自身の唯一監督したシリーズ第四作『ダーティハリー4』で、ソンドラ・ロックと化合する。
 
間接描写されるソンドラ・ロック(とその妹の)レイプ回想。画家として現れるロックは暗い自画像をテーマにしている。『ガントレット』よりもさらに彼女は、イーストウッド自身の科白を語り、その鏡像となり、とうとうクライマックスの遊園地の場面では、アンソニー・マン的な高低差=サスペンスフルなアクションへとハリー・キャラハンを導く。鏡が多用されるばかりではなく、イーストウッドとマンの関係もが鏡像となるのだ。フィルム・ノワールを底流にもっていた『ダーティハリー』シリーズは、ロックを媒介とした鏡像反射の不気味な作用をつうじてフィルム・ノワールの出自を全面露呈させる。このあとに、リチャード・タッグルが監督した(とはいえイーストウッドの演出場面の多い)、非イーストウッド的な「不安定性」によってフィルム・ノワールの金字塔となった『タイトロープ』が来る。だがそこにもうソンドラ・ロックの姿はなかった。
 
イーストウッド映画には「娼婦」テーマが間歇する。ソンドラ・ロックが学生風にして娼婦だった『ガントレット』がすでにそうで、それは娼婦たちが気概をもって設定したお尋ね者の賞金付与が物語を起動させる『許されざる者』へと結実してゆく。そのなかで『タイトロープ』は「娼婦殺し→仲間の娼婦捜査→捜査対象の娼婦と寝る刑事→その捜査対象の娼婦をさらに犠牲にする連続殺人→犯人と刑事の同化」という陰惨な経緯を描出する。このときはもはや「娼婦」がいればそれでよく、ソンドラ・ロックがすでに不要となっていたのではないか。『タイトロープ』はその不在により、ロックが顕在化する、逆説的な作品だった。
 
自分がなにをしていたのか。イーストウッドはやがて鏡に顔を向けて自覚するのだろう。皺がふかく刻まれる顔になった彼は、やがて自作自演の映画の主題を、以前よりももっとはっきりと「悔恨」に収斂させ、前人未到の作家映画を確立しだすようになる。ソンドラ・ロックはその踏み台となった。その監督作をおもいだしても知性のはっきりあったソンドラ・ロックをいま対象化するのは、つらい。
 
「ポジティフ」を舞台にしたマイケル・ヘンリー・ウィルソンによる数々のインタビューをなぜか「カイエ・デュ・シネマ」が2007年に集成・単行本化した“Clint Eastwood”(邦訳『孤高の騎士 クリント・イーストウッド』2008、フィルムアート社)が、いまのところイーストウッド把握を厳密にする最大の好著のようにおもえる。ただしそこではソンドラ・ロックの名が禁句だった。だから「ジャンル映画時代→悔恨を主題にした作家映画時代」の流れの分析が完璧になっていない面がある。ソンドラ・ロックそのものがのちのイーストウッドにとって「悔恨」のルックをしているだろうこと、それを院ゼミでは指摘しなければならない。それは暗鬱で恐ろしいことだろう。
 
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