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2017年03月30日10:25

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又吉直樹・劇場

 
【又吉直樹・劇場】
 
増刷で話題をふりまいた「新潮」4月号掲載、又吉直樹の『劇場』をようやく読む。東京で劇作家・演出家・劇団運営を目指す「永田」と、演劇経験もあり、永田の生活を支える少女「沙希」とのボーイ・ミーツ・ガール形式、ついにはせつない破局までもが(予感と残存のからまった形式で)しるされる「恋愛小説」だった。同時に前作『火花』を継ぎ、破滅志向を孕んだ、厄介でわかい創作者にまつわる、逆説的な芸道物=成長小説=ビルドゥングス・ロマンでもあった。
 
細部に呻吟のすえ確定した「着想」の痕跡が多々あり、さすがに「小ネタ」の連接に拘泥する漫才芸人の小説だと唸った。「小ネタ」というと馬鹿にされがちだが、それが小説のディテールの肉質になるのはむろんだ。それでいて、ちいさいがうねるような全体のながれが、たくみな時間経過とともにある。そう、結果的にいえば、有名性と達成度、この共存によって又吉直樹は、どんなに細部に子供っぽい瑕疵があっても、やはり現在の「文学の星」といえた。
 
小説の舞台は、「演劇の街」下北沢を中心に、井の頭公園、渋谷、新宿、代官山、羽根木公園のある梅ヶ丘、さらには永田が仕事部屋を確保する高円寺などに設定されている。アナクロな無頼派のただ目立つ中央線沿線に較べ、「あそこらへん」には無頼派とおしゃれ系のひそかな乖離があり、総体としては表現者志向の若年層の生活水準が「やや高い」のではないか。そうした正と負のみえない齟齬が作品の基調に横たわり、さらには演劇という(成功確率と存続の面で)絶望的な表現手段をえらんだ者たちの運命的な陥没が、より際立つことにもなる。
 
小説を読みすすめてゆくと、永田=「永くん」と沙希が「あそこらへん」をかぎりないように同道=ならびあるいていることに打たれる。都市彷徨者が符牒づけられているのだ。又吉は男女の仲をしるすのにセックス描写をつかわない。「あるき」をつかう(むろんことばのやりとりも表情描写もあるが)。歩行は、たとえば沙希が服飾学校の学友からもらった原付バイクや、永田が生活手段のためにプレゼントした自転車で不吉に阻害される(自転車なら沙希の心移りの証拠物となりながら、その直後、二人乗りを導く架橋物ともなる)。これらの小道具は又吉には意識的だろう。事物に運命がどうあらがうのかはこの小説の主題底流のひとつだった。
 
「あるき」だけが至上の価値をもつのかというとそうでもない。それは作品が演劇を素材にしているためだ。「あるき」には段階がある。たとえばラストシーン、東京を決定的に去る沙希の、アパートでの荷物整理を名目にしたふたりの別れの儀式。さきに整理をおこなっていた永田は沙希の段ボール箱から、沙希が永田の芝居に出演したときの思い出の台本を見つけている。その台本をふたりは往年の共演時よろしく別れの儀式で読みあうのだ。回顧感覚にみちたそれは一種「同道」とおなじ効果をよぶが、ふたりはそのやりとりのなかに慚愧や謝罪といった自発的な発語までくりこむ。それらの発語が「泣かせる」のだが、その泣かせは同道の崩れを同時出来させる。決定的に。
 
もともと演劇は極小単位では、科白のやりとりが「同道」的なのだが(永田の発案する演劇にはキャラクター当人に意識されているのかいないのかわからないが、同道性を変奏する実験がくりかえされている)、又吉は作品が終結へ向かうにしたがい、演劇そのものが世界を包含し、人間がすべて俳優としてとらえ返されるというシェイクスピア→ヤン・コット的、「世界=劇場」的な演劇論を開陳してくる。このときの演劇的世界性とは空間重複であり、奥行きであり、アナロジー、アレゴリーでもあって、それは歩行形式のもつ具体的単線性と、一対一の併存期待性とをケムに巻き、かつは傷つける磁場とならざるをえない。「世界」はふくざつにして単調で、この同時性により、同道の明視性を失視させるのだ。演劇は「立つ=停止する」。だから作品では同道性と演劇性が天秤にかけられ、その平衡がかならずどちらかに傾く不如意がとらえられているともいえる。
 
小説の冒頭、書き出しで大いに苦悶したにちがいない又吉は、たぶん小説ということばの歩行形式そのものの失態をしるせばいいと気づいたはずだ。又吉は、歩行と身体のまさかの脱線を、詩的=哲学的にしるす。おそらくはこの精度にこそ又吉小説の今後の可能性がある。いくつかみてみよう。
 

 
きっかけもなく歩き出してはみたけれど、それは家を目指して歩いていたわけではなく、ただ肉体に従い引きずられるような感覚に近かった。

自分の肉体よりも少し後ろを歩いているような感覚で、肉体に対して止まるよう要求することはできなかった。

時々、僕は僕の肉体に追いついたりもしたので、あるいは全ての行動が自分の意志によるものだったのかもしれない。だが、僕が僕の肉体を追い越すことは一度もなかった。
 

 
こうした物言いは、小説『劇場』のほかの細部には一部の例外を除き、あまり見受けられないものだ。『劇場』ではたとえば饒舌の破滅的な氾濫、話者の自意識への攻撃といった、『火花』からの既視感が主流をつくるが、摘記した「歩きと身体の乖離」は、たとえば又吉が太宰や芥川とはちがいほぼ言及していない川端康成、その『みずうみ』の主人公・桃井銀平からの既視感を反映させている。川端『みずうみ』は同一性が内部的異質を分節しつづける異様な時空間をもち、しかもそのなかで独立構文がどこにも帰属できない不気味な特異点をしるすのだが、「小ネタ」を連接する又吉にとっては、こののっぺらぼうの二重性が今後の参照系のひとつになるだろう。
 
あるくことは、身体全体と同位ではない。身体はあるくことを媒介に、あるきから刻々乖離もしくは遅延するのだ。おのれからの遅れがあるきには内在されて、あるきは身体を移動させながら、無惨にも遅延を痕跡化する。これが相互化すればセックスになる。その意味でいうと又吉は、あるきの実相に迫ることで代替物もしくは発展物のセックスを秘匿できる。むろんそこには清潔さへの志向がかくされている。
 
もっとかんがえてみよう。あるきは世界内を単独で線形化できるといっけんおもわれる。ところが世界の眺望そのものが、「夕焼けがおおきくみえてときに怖い」ように、時間と共謀してあるいているのだ。人の歩行が世界の歩行と調和するなら必ず人のそれは世界のそれに吸収され、歩きは調和次元では存在することができない。とりわけ世界=劇場とかんがえると、舞台で歩行は演劇に調和できない難関となる。「私もうすぐ二十七歳になるんだよ」と沙希がとつぜん発語するくだりもあるが、小説『劇場』では時間経過が巧みだと先述した。ここでは懸命に同道した主役男女の上位で、先駆けて「時間があるいてしまっている」残酷が剔抉されているといえるだろう。
 
「僕」=永田にとって、沙希は「あるき」の共存性によってえらびとられた存在だという点は疑いない。確認しておくと、永田―沙希ふたりの出会いは以下のようだった。画廊でみかけた沙希を、永田が川端「みずうみ」の桃井銀平のように尾行する。それはむろんあるきながら自分自身を尾行することとひとしい。異変に気づいたまだ沙希と名付けられていない沙希は道の反対側へと渡り、尾行を振り切った。そう安心した刹那、永田がふたりの靴がアナロジーをもたないのに、「靴、同じやな」と声をかけるのだ。本当は靴ではなく「あるくこと」がおなじだと永田が予感したとしか受け取れない。そうかんがえると、このディテールは鮮烈な出会いをひつようとするボーイ・ミーツ・ガール形式での「失敗」ととらえずにすむようにもなる(以後は沙希のアパートの調度品で「靴箱」が重要な位置を占めだす)。見事な同道=あるきの哲学の一節がある。
 

 
沙希は理想的な速度で歩いてくれた。僕は自分よりも速く歩く人は嫌いだし、自分よりも歩くのが遅い人はもっと嫌いだった。おなじ速度で歩いてくれる人だけが好きだった。そうすることによって、歩く速度を意識させない人が好きだった。だが、沙希は完璧な速度で歩くことによって、僕に歩く速度について深く考えさせた。
 

 
完璧な同調は差異を無化する――そうおもえる。けれども上位意識は、同調とは差異性の特異点だと残酷にとらえ返すのだ。この不可能性認識がたぶん永田の演劇行為の困難と相即している。小説『劇場』はやがて永田と同世代にして、才能あらわな演出により演劇界で地歩を固めてゆく「小峰」を対象化しはじめる。ずっと核心的な用語が回避されているが、永田が小峰におぼえたのは灼けつくような嫉妬だ。この「灼熱」の本質は実際には同調であるのに、永田の心情の地獄のような悶えは、同調がひそかに、あるいは本質的に予定する差異性のむごたらしい露呈を原資にしている。換言すれば、同調領域にあるものにたいしてしか、ひとは嫉妬にまで拡大する差異を見いださない。
 
ところで恋愛小説では、キャラクターの魅惑化が必須となる。その感情表出の容易性、善意、向日性、笑い、積極性、献身、同調傾斜性(※手をつかわずにアイスコーヒーをストローから飲む仕種の模倣、大阪弁の模倣、永田の台本への落涙を伴った感動)などによってありえないキャラクターとよばれるかもしれない沙希を、具体性へと実質づけているのは、又吉によるその「顔」の描写なのだった。
 
じつはその表情は永田の志向する演劇性にたいし先験的に演劇的混沌をしるされているのだが、慚愧の段階にはいるまで永田がこの点に自覚的だったかどうかはわからない。小説が進むにしたがい、周囲の反応から沙希が、性格がすばらしいだけでなく容色がかわいいとも間接的に判明してゆくのだが、又吉の描写はすこしめくれあがったようすに特徴のある沙希の上唇に拘泥するだけだ(ここにじつはエロスの秘密がかくされている)。ただしその「顔」は確実に全体性を描写されている。以下のように――
 
《その人は睫毛が長かった。〔…〕その人の上唇はツンとめくれ上がっていた。不安気な表情のなか、その部分だけがやけに楽しそうにみえた。その上唇の形状を元に、その人が幼かった頃から今日までに、どのような生活を送り、どのように容姿を変貌させてきたのかがわかった》。これは顔の細部が時間的奥行きをもち、細部のこれまでの「歩行」過程を認めた気にさせる同一化の魅惑を表現している。このことが永田の企図した舞台の(観方によってはプルースト的ともレヴィナス的とも映る)次のような着想と共鳴している。《過去は常に現在の中にもあって、未来も常に現在のなかに既にあるのではないか。》(この舞台が結果的に評価を得なかったのは多時間的「同道性」と「共存」にただしい架橋が果たされなかったためだ)。
 
ところが永田が劇団を共同運営する同郷出身者「野原」にたいし、沙希の表情をどう語ったかについては無時間的な「共存」=ほんとうの演劇性(じつは同一化とは次元を異にしている)が分析されている。○「怒ってるのに笑っていたり、泣いてんのに疑う顔をしてるときあんねん」。○「主張と感情と反応が混ざって同時に出てしまうねん」。この感慨は、沙希との仲に暗雲がたちこめだしたときの地の文へも発展する。《沙希の表情が怒りで崩れれば崩れるほど、沙希の笑顔を思い浮かべることが容易にできた。》。同一性のなかで異質性は、人にあたえられた受苦にも似る。夜と昼についてのレヴィナス的な見解を、永田は沙希に問う。○「ずっと昼間で人間の体だけ夜になるのと夜になるけど人間の体は昼間のままなん、どっちがきついんかな?」。
 
小説家としての又吉直樹の美質は、描写を連打せずに、寸止めに抑え、印象をのこす機微につうじていることだろう。これは「小ネタ」的単位性の呼吸、ともいえる(この点で、音楽活動をしていた同郷出身者が〔沙希に先駆けての〕荷物整理ののち一旦の留守を永田に託し、早合点した永田と野原がその家具調度をワゴンで持ち運んだ顛末がギャグとして見事だ)。これがあるから永田と、もと劇団所属女優、現在は作家の卵となった「青山」との短時間でのメールの爆発的やりとり(『』でしるされる)や、飲み屋の店長の自宅から沙希を連れ帰ったときの二人乗り自転車での痛いほどの永田の饒舌など、「氾濫」が見事な対位法をえがくことになる。
 
さてそうした又吉的法則からすると、沙希の「顔」「表情」の実存的な異質共存性の魅惑は小説のクライマックスにいたっても発展的に明示されることがない。猿の面の向こうにみえた沙希の涙眼の顔が、ちいさくわらう描写はあくまでも恬淡として小規模だし、そのまえにもおそらく最後のデートでの《日が暮れはじめると、急に沙希の指や靴や唇などの細部が鮮烈な印象で眼に入ってきた。どの部分を見ても、それにまつわる情景が頭に浮かぶ。沙希が存在するということが、ほとんど奇跡のようだった。》という、観方によっては当たり前の描写があるだけだった。慚愧とむすびついた郷愁が死に至るものであり、それがかならず複数化、もしくは多様性共存で顕れる点が強調されていないのだ。これはながれとして問題にすべき欠落なのだろうか。かんがえてみれば、この点こそが演劇の最終的な様相であり、それをはじきかえすようにして人間は世界=劇場のなかで役割化という縮減に陥るはずなのだから。
 
そのことでかんがえるべき細部がじつはさりげなく『劇場』には挿入されている。永田と仲を恢復したようにみえたころの沙希のひとつの発話がそれだ(沙希は恢復の代償に昼のブティック勤務、夜の飲み屋勤めを辞めている)。東京、あるいはそれを体現する永田に被曝した沙希はアル中に陥っていて、永田の心配もあって、酒類をアパートの部屋のなかに隠されている。その沙希がアルコール類をみつけだすとき、探査に、いわばベラ・バラージュ的な「顔貌化」が交錯するのだった。つまり沙希の顔はえがかれないが、沙希の行動の発語が「顔」になる、ということ。しかもそれが、進展そのものが余韻を孕む微妙な筆致で描かれている。又吉は『火花』から『劇場』にいたる道筋で「間歇性」を練磨したのではないだろうか。以下。
 

 
 夜中に沙希の部屋へ行くと、沙希は顔を赤くして呂律が回らない口で「おかえり」と言うと僕に微笑んだ。
 「また酒飲んでるんか? 飲み過ぎたらあかんて言うたやろ?」
 「これがないと寝れません」
 沙希は僕の目を真っ直ぐに見つめてそう言った。酔っている時だけ僕の目を見てくれる。
 「もう酔っ払いやん。焼酎隠しといたのに」
 「隠すとこすぐわかるよ!」
 そう言って沙希は急に立ちあがって押し入れを開けると買いだめしているボックスティッシュの後ろを指差した。
 「おっ、偉そうやな。今度絶対見つからんとこに隠すからな」
 「絶対見つかるよー。すぐだよ」
 「どうやって?」
 「目を閉じてな、お前の残像を探すねん」と沙希が言った。
 「なに、俺みたいなこと言うてんねん」
 「言うてるか、アホみたいなこと言うな」と沙希は真面目な顔をして僕の口調を真似る。
 「言うてるやんけ」
 「言うてないわ。ほんでな、耳を澄ますねん。ほんなら声が聴こえますねん」
  

 
おそらく、こうした描写でのまとまらなさが、存在的郷愁の本質であり、永田のかんがえる演劇の真髄なのだろう(作中、目覚ましい才能の小峰がおこなった商業的総括性・展開性にたいして、永田が小峰の演劇には実現できていない、一種の随意性のすばらしさを自らに課そうとかんがえるくだりもある)。そういうものは総体的にみれば混沌なのだが、混沌の各瞬間がかけがえのない唯一性で具体化されている。ところがその具体性はやがて溶解にいたり、ついには静寂につつまれることにもなる。この機微は作品の一節にある。まだまともな沙希と、青山によってもたらされたライター生活の上滑りで乱調をきたした永田のやりとりがそれだ。だれもが「泣ける」というだろう。それを又吉は一過性の枠組に押し込めた。この残酷法則が『火花』を継ぎ、かつ『火花』を練磨したものだった。最後にそれを引く。またもや、要約できない「やりとり」なのに注意してほしい。そしてそのリズムの秀逸さにも。
 

 
 「こんな時間までどこに行ってたの?」
 沙希の少し鼻にかかった声は優しい。
 「わからん」
 「また沢山飲んだの。楽しい?」
 「わからん」
 「誰と飲んでたの?」
 「知らんやつ」 
そう言うと、沙希は目を閉じたまま少し笑った。
「もう疲れるから、行かない方がいいよ」
その通りかもしれない。
「疲れたでしょ? 梨買ってあるよ」
 沙希は目を閉じたまま寝言のように囁く。
「なぁ」
「うん?」
「ここは安全か?」
  
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