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2017年03月18日14:29

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雑感3月18日

 
一篇の詩を作者が「完成」したと自覚するときには、ある徴候がふくまれている。「それがすべて自然な発露によっている」――これはたぶん自明に属する項目だろう。同時に、「もう削るべきところがない」――これがたぶん「完成」にまつわる特有の表情なのだ。詩作者は推敲の過程で生じた多数の抹消線をそのときには記憶している。できあがった作品〔=のこったもの〕にたいする満足よりも、過程で生じたそれら抹消線の英断性を、たぶん自負の道具にするほどなのだ。だから詩篇の出来はつねに「秘密」と関連している。
 
むろん「もう縮められない」は、みじかさを価値とすることと表裏している。ただし詩脈はいわゆる通常の文章における文脈とはまるでちがう。たとえば反復は詩においてはリズムであり強意であるのだから、それが冗長とみとめられなければ、そのままに抹消要因となることなどない。逆に、文脈の論理性は詩では抹消要因となる。文脈が切断され、そこに謎や飛躍や空白や乱暴が生じれば、それがかえって詩脈の実質となることは、詩作者ならとうに経験済だろう。平叙から離れるためにまず内化されるひそかな猛威、その最初の相を抹消とよぶことができる。この意味で詩作は、自殺そのものではないが、自殺的ととらえることも可能だ。
 
抹消の欲望はやわらかさをうばっている語彙を標的にし、説明過多の構文や言外の域にあるべき形容詞、もたついている接続詞、厭味な学殖などに「褶曲」を浴びせかける。襞をつくりながら、それを奥へと消す。物質的な側面における詩の伝達可能性は、襞の秘密をのこしたままの襞の平滑化から生ずる。この作業が「そのまま」が「そのままでないこと」にまで格上げをおこなう。
 
詩作とは平叙からの格上げをそのようにして刻々加味することなのはたぶんまちがいないが、同時に抹消の欲望は、頻度の問題にも敏感なはずだ。格上げが多すぎれば、それがかえって単調を結果するとして、格上げそのものまで抹消して、一種の「整え」をさらにほどこす。「整え」が「調え」と同音なのが示唆的だろう。不必要の徴候が音韻のみだれとしてあらわれることを、詩作者の多くは知っているし、構文に負わされる荷重が、それが荷重として露呈されているかぎり音の面からみにくいともわかっている。
 
文の連鎖が「いきもの」性をもつかぎり、「もう削れない」とは、死の宣告なのだろうか、それとも放生のはなむけなのだろうか。なるほど詩作者の手には、その詩を書くまえよりもさらに、死が蓄積されるかもしれない。ところが抹消の果てに「のこされたもの」は、逆転をけみして、放生される際のはなむけにそれじたいかがやいている――この点が肝要なのではないだろうか。
 
「いきもの」として余分な肢や首などをもたないこと、それが削りおえたあかしだろう。ところがそれが人間にない尻尾や鱗や甲羅や蹄鉄をもっていたとしても、それが「いきもの」であるかぎりさらにかまわないのだから、詩は本来が可笑的というべきかもしれない。「もう削れない」ことが、わらいを惹起しているすがたが、詩の至高性なのではないか。
 
いっぽうで、「もう縮められない」さみしさといったものもある。切羽詰まってはいないが、そのときには「とつぜんのおわり」が感銘をあたえることがおおい。「とつぜんのはじまり」と同断だ。ともあれ、わらい、さみしさ、いずれであっても、もう縮められない詩篇のなかに「詩の機能」が充実している点はたしかだ。ところがその機能性は、おとなしさの表情をたたえることでさらなる至高性を得る。そうして、たとえばまど・みちおと杉本真維子とがつながれる。
 
他人の詩を読んで、感銘をうけながら、「まだまだ削れる」という判断が働き、細部をまともには読めないばあいがある。ひどいときは飛ばし読みまでしてしまう。「なにをこんなに説明しているのか」。これは一見、精神的に不衛生のようだが、みずからが他人の詩篇にほどこした抹消線が、みずからのつぎの詩作の原資にもなるのだから、やはり詩の繙読がおもしろい。残酷なようだが、事実だろう。
 
もちろん矯められていない冗長な詩が、現象としては多すぎる。逆にいうと、あらわれている詩そのものに「抹消の痕跡」をみとめ、昂奮することは、稀少な恩恵に属する。ところがいつでも「もう縮められない」詩篇を提出してくるおそるべき作者が十人ていどはいたりする。
 
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