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2016年04月12日15:53

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長い論文

 
【長い論文】
 
すこしまえに「長い詩」(投稿詩の傾向)について書いたが、長さをかんじる論文というものもある。分量的に長大ならそれはそれで立派なのだが、論述効率がひくく、無駄をかんじる論文が、とくにぼくの職場にかかわる院生の、映画関係の論文に目立つ気がする。そのような論文はたとえ二万字であっても読む最中から「長いなあ」と不平が漏れでてくる。
 
そうした冗長性の理由をかんがえてみよう。
 
●まず場面の起こしではたぶん小説の描写に魅せられたことがない欠落が作用しているのではないか。それで「言外」を操作することができず、カメラの運動、構図などを逐一的に書いてしまう。これはむろんDVDの操作にも裏打ちされているが、そうしたディテールを書かなくても場面上の意味・運動などは、修辞が正しければ具体化する。一をしるして十をつたえるように。
 
●たとえばカメラ運動のみを考察するなら、数学的な書式を選択すべきだが、そこでも低効率の問題が起こっている(これは「動詞」にかかわる感性、運動神経が惰弱だということ)。詳細性に字数と注意が移行してしまうため、俳優や場所の質感などをぎゃくに適確につたえることができず、立体感が失われる(これは「形容詞」のヴァリエーションの問題とも関わっている)。
 
●論文はふつう、要約性と詳細性を箇所によって選び分けるものだが、このふたつが一定の度合に終始するのも問題だ。これは作文練習の不足による。リズムや遠近感が単調。たとえばある映画のあらすじを百字、五百字、千字、二千字というふうに、語りかえる練習をしてみたらどうか。それがうまくいくようなら、その場で最良のギアチェンジが可能になる。これが勢いをつくる。
 
●自分が調べて、対照できる文献をすべてつかいたくてウズウズしている気色がみえる。これはちがう。論じている映画に使用する参考文献(箇所)は(ひとつの文献からでも)多様に用意したのち、自分の指摘ともっとも良い共鳴をするものをさらにその場で再選択すべきなのではないか。すべてを選び参照系を展覧してしまうことで冗長になる。これは精神の吝嗇傾向とリンクしている。少ない文献で論文をしあげようとするタイプにこの様相がつよい。もともと参考文献が多様ならば、ふくれあがりを防ぐため、端的効率的な引用をせざるをえなくなるのは明らかだろう。
 
●これは「長い詩」にもかかわるのだが、主題なり結論なりの「目標」があって、ことばという「道具」をつかっている意識がそもそも審問に付されなければならない。はたして「目標」と「道具」に弁別などつくのだろうか。「目標」はすでに「道具」であり、「道具」もあらかじめ「目標」とかんがえれば――「目標」と「道具」が溶けあった分だけ、字数の無駄が抑制される。それがいわゆる「名文」というもので、このことは感性の成熟が約束する。こういうと元も子もないが、「若い論文」が「長い」のだ。
 
●あるいは身体が鍛えられていない。冗長性と反対のものは、流暢さであったり、筋肉であったりする。柔らかさと胆力、それらに支えられて、あきらかな描写なり、かんがえの明確な文章なりをつくりだされる。むろんこれらがないと、先行研究にたいしほんとうの独創性の上乗せなどできないのではないだろか。
 
●そもそも一文が複文構造などによって長い。短文もまじえると文章が活性化するという「文章教室」の議題が現在、閑却されているようだ。ここでも「うねり」がつくれない。それと、文章の方向性を安直にするのが「繋辞(=である)」の存在だ。いちど各文の末尾に使用する動詞を一般動詞にしてみたらどうか。
 
 
さて、以上のような問題を抱えた論文を、文体論の見地から是正することは意外とむずかしい。というか、ぼくじしんが文体論を信奉していないのだ。ただ個別に論文にむかえば、それに多量の赤字を入れ、圧縮することができる。ほとんどすべての学生の論文は、半分ていどに圧縮できるだろう。
 
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