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2015年07月26日05:37

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中本道代について・下

 
【中本道代について(下)】
 
(承前)
 

 
中本道代を「水の詩作者」と認識するひとは多いだろう。たしかに四大のなかでもとりわけ水の登場頻度がたかい。ただし当初、中本の水は、作用性の水――たとえば降雨だったり、作用域の水だったり(《すべての汽車が海に墜ちる》〔「Do you hear………(Texas)」『ミルキーメイ』)、水の一作用としての鏡面性だったりした(《水面に映るものは揺れる/揺れながら不動である》「鏡」同)。水の物質性、つまりその無形、透明、瀰漫、自己形成性のさみしさに分け入ることはなかったといえる。たぶん中本は水への愛着のうちに恐水病を罹患していたのだ。
 
むろん詩集『ミルキーメイ』まででも水の本質に肉薄しようとしたうごきがみとめられる。前述のようなこの詩集特有の叙法――微差的・段階的な時間加算――によって綴られた以下の奇妙なフレーズ。《水の中の長いひも/水の中でゆれる長いひも/水の中でゆれる長いひもの群れ/水の中でゆれる長い平たいひも》(「生物」冒頭)。
 
おそらくは真水のもつ清澄のきわみ、生物の峻拒に、想像がたえられないのだ。それで想像は突破口をさぐる。水がその内部をゆらし、ひだをつくり、ひるがえるとき、「水のなかの水」(それは、あるようで、ない)の本質的なかたちがあらわれないか。中本はそこに、素粒子の基本たる「ひも」形――宇宙の単位とすらなるもの――をみるのではないか。超ひも理論でのひもは線形か輪形だが、中本には「ながいもの」にたいする恐怖か執着もあり、水のなかにひもの(ちぎれちぎれの)ながさをみてしまう。「ないもののうっとうしさ」。だから三橋鷹女のようにむげもなく断言する。《あれがきらいよ》。
 
中本がえがかないのは川だ。たとえば西脇順三郎『失われた時』のコーダ部分は、詩行をそのまま川のながれにしてしまった、不可能性をこえた言語的な変貌だった。縁語などをつうじさまざまな形象がうかびきえるが、本質的にながれるのは音韻。いっぽうで中本は「すくなさ」の詩作者だから、水は「たまり」、グリッド=矩形のように一分布としてまとまらざるをえない。それでとりわけ湖や沼が、水のとるべきすがたとなる。ただしそうした水に、水をこえた宇宙性まで揺曳してしまうのが彼女の独壇場だろう。書割からもっともとおい湖。なぜそうなるのだろうか。
 
宿命的な再帰性かもしれない。詩作者の詩を分析するのにその容貌までいうのは逸脱か反則だが、彼女のおおきく見ひらかれた、ゆたかな水分をたたえたうつくしい瞳は、そのままに底なしの湖を想起させる。宇宙性、澄んだ湖、底のないこと、底のない瞳は、拠りどころのなさの系譜として一括される。さまよい出るところが真水の場所ならば、さまよい出るための動力も、真水のような非親和なのだ。そうして彼女は「水に由縁されて」、遍在するものとなる。しかしこのことは通約可能性と不可能性とを同時にもつ。いましめられなければならないのは、つねに還元だろう。
 
中本道代の第五詩集『黄道と蛹』(99)、第六詩集『花と死王』(08)は、ともにゆたかな多様性をうかがわせる円熟した詩集だが、やはり「すくない」「減喩の」詩にすごみがあり、そのいくつかが水にむすびついている。井坂洋子は『詩はあなたの隣にいる』(15)中「ふたつの山の上に」で、山村暮鳥を導入項にしつつさらに中本『花と死王』から『黄道と蛹』へとその「水詩篇」ふたつを逆走してみせた。具体的には前者所収「高地の想像」、後者所収「湖」だった。ここでもその手順に倣ってみよう。聯間二行あけを一行あけにして最初の詩篇を引く。
 
【高地の想像】(全篇)
 
ヒマラヤの湖に
夜が来て朝が来ても
ただ明暗が変わるだけ
そこでの一日とは何だろう
 
風が訪〔おとな〕い続けて
 
そこでの一年とは何だろう
 
ヒマラヤの湖に
だれかが貌を映すのだろうか
 
ヒマラヤの湖に
小さな虫が棲んで
何も考えることなく
くるりくるりと回っているだろうか
 
風のおとなう場所は風「のみ」がおとなう場所として純化される。唐突に想像へあらわれた「ヒマラヤの湖」は高地にあり、地下水からおおきなくぼみににじみでた水のしずかな湛えだが、それは川としてあふれださずにそのまま地下水としてまたほとりのさきを沈めてゆくようにおもわれてしまう。空間連接が断続的になっていたそれまでの中本詩からの聯想かもしれない。そこはつめたさにより魚も生息できない。途絶した場所なのだ。
 
プランクトンもいない。最終聯に「小さな虫」とあるのは、プランクトンではなく、さきにみた「水の中の長いひも」と同様、「ないもの」を形象として幻影化した逆転ではないだろうか。それが「くるりくるりと回って」宇宙的な舞踏をもらすのなら、それはただ想像の次元でのみ感知される共振というべきだろう。
 
風は万象を愛撫する。「場所」に依拠している生存在を、その場所こそが絶望だとあらあらしく気づかせる。湖面にさざなみがたつ。ただしそれは表面のもんだいにすぎない。底まで清澄をとどかせている湖は、もっと無為な時間推移の映写幕へと、この詩では陥れられている。「明暗」が変わる。陽にひかり、夜に暮れる。朝夕には恥じらいの色をうかべるかもしれない。魚がおらず、だれもおとなわない、忘れられたヒマラヤの秘密の湖では、それだけが一日なのだ。いや、それだけが一年なのだ。湖に雪がつもらないのは何の懲罰だろう。いやそれはやがて凍る。凍れば雪をたたえ、しろそこひのように盲目化するかもしれない。「眼の危機」はやはり湖にある。
 
一日のひかりの推移、一年のひかりの推移をうつす映写幕など、どこそこの壁でもどこそこの道でもこの世には無限にあるのだ。ただしそれらは人影もうつすだろう。ヒマラヤの湖面はおそらく高地にありすぎて人影どころか鳥影すらうつさない。場所の孤独。第四聯、《ヒマラヤの湖に/だれかが貌を映すだろうか》では、じっさいは、ひとのおとないが想像されていないだろう。中本詩のもつ「さみしさ」は純然たるもので、俗情とは無縁な域に非親和の状態で自己露呈する。だからそれはこう読まれなければならない。「いない者」だけがそこへきて、「ない顔」を映す、と。そうしてヒマラヤの湖が荘厳される。
 
むろん虚心に読めば、「だれかが貌を映す」「くるりくるりと回っている」にみられる「動詞」は、女性的な優艶をつたえるフリルと一見うつる。ところが「そこでの一日とは何だろう」「そこでの一年とは何だろう」の畳み掛けが修辞疑問文の色彩をもつかぎり(解は「何でもない」になる)、貌も回転も見消〔みせけち〕へと反転してしまう。するどい虚無がぎりぎり修辞となっているすごみをむしろ掬すべきなのだ。
 
この機微といわば「出し入れ」になっているものがある。「ヒマラヤの湖に」という書きだしが聯頭におしなべて出現して、頭韻的な想像で対象をえがこうとしたもくろみが、途中ふたつの一行聯「風が訪いつづけて」「そこでの一年とは何だろう」でほどけてしまったのだ。これら各行こそを、さきにみたことから「ひも」とよべる。井坂洋子は前述文章で山村暮鳥「風景―純銀もざいく」(『聖三稜玻璃』)での「いちめんのなのはな」の連鎖につき言及したが、そうした連鎖の蹉跌を中本「高地の想像」は隠している。一種、膂力の瓦解というべき事態だろう。
 
反例として八木幹夫のすばらしい短詩をおもいだす。《にらの花はかなしい/にらの茎はおいしい/にらのにおいはくさい/にらの畑はさみしい/西日にゆれるにらの花》(「韮」『野菜畑のソクラテス』)。いやこれとて、最終行冒頭から「にら」がはずされ、構文の形容詞終結もくずれた。中本の聯の冒頭が「ヒマラヤの湖に」で統一できず、ほぐされてしまった一行聯の「ひも」二本がさみしかったように、八木が一瞬つづった「さみしい」が最後に行あたまの「にら」をくずしてしまったといえる。これらこそが、生きている詩の呼吸なのだった。
 
【湖】(全篇)
 
高い山の上に湖があり
湖はその深い水底に魔物を匿っていた
あなたはボートに乗るの?
湖の中央まで漕ぎ出すの?
そんな小さなボートで
 
高い山の上で
ボートとあなたは水の上にあって
天に向かっていた
その水平線は非常に薄く
在るとも言え 無いとも言えた
 
見下ろせば水は青緑にどこまでも深く
魔物はどこにいるかもわからないのであった
 
けれど
 
魔物はゆっくりと泳ぎ上ってくる
あなたはそれを見ることはできないのだが
天とあなたと魔物は今 一垂線をなす
 
さきに掲げた詩篇と同様、水=湖は高地にある。天空の水は水を高潔化するが、それは水と天空との連絡をかすかに秘めて、じっさいは天空の組成物質が水ではないかという疑念までいだかせる。そうなったとき地上から天上への「上下」に目盛がきえるのだ。
 
この湖は火口湖だろうか。ともあれ湖が天空の域にあることは、空にちかづいているぶんだけ、「水平面」を「非常に薄く」し、天空との境をみえがたくする。「青緑」としるされているが、それが同色一系であることで透明とおなじだとするなら、天空と区別できない湖は、水ではなく天空そのものを湛えて静まりかえっているともいえる。そこは魔域で、舟などうかべてはならないはずだ。「観光施設」が侵犯を使嗾するなら、おおかたの案内が地勢への畏怖を欠いているのかもしれない。
 
「あなた」はリアリズム文脈なら中本の配偶者とうつるかもしれないが、読者個々であってもかまわないだろう。うすい水面(しかしかんがえてみれば水面はいつでもうすい)にうかべられたボートは水面にうつる天空にささえられ、もはや「天に向かって」いる。修辞の魔術に留意が要る。そこに気配がしのびこんでくる。気配は本質的には非親和だ。気配そのものがすでに破局、災厄の片鱗だからだ。
 
湖の内容は青緑をしている。測りがたい深さだ。測りがたいものは本質的に魔的だろう。だから湖に「魔物」がいる(この「魔物」をのちに中本は「死王」とよびかえたのかもしれない)。ボートの真下へとそれは「ゆっくりと泳ぎ上って来る」。うごきのなまなましさ。それにたいする「あなた」の油断。ボートが転覆すれば、水のつめたさに「あなた」は即死するだろう。詩は見事な文体で、その手前の衝迫をもって寸止めされる――《天とあなたと魔物は今 一垂線をなす》。
 
上の「天」―中の「あなた(ボート)」―下の「(泳ぎ上って来る)魔物」――これら上・中・下三層を貫通するものは「線」でしかない。貫通は神秘的な被雷であり、見神だ。そうして恍惚の絶嶺でひとが死ぬ。ただしこの貫通は中層の水面、その「うすさ」が上下をよびよせるものともみえる。むろん地上の「うすい」人間にも適用できる災厄可能性だ。
 
ともあれ中本的な換喩は、図示の誘惑をもつ。この図示が事柄をざんこくに縮減するのだ。それでひとは天空・「あなたとボート」・湖中の魔物(上方への矢印付)を図示する。即座にその図示は矢印が「あなたとボート」さらには天空へまで伸びる余勢を付帯する。それで描かれた図全体に否定の縦線がひかれることになる。じつはこのうごきまでをふくむことが、この詩篇の鑑賞になるのだった。そうして読者は詩篇のおそろしさに気づく。書かれたものを読者側の想像が超えるように配備されているのなら、書かれたものにもともとあったのが縮減だ。だからおそろしいのは減喩そのものなのだと換言できてしまう。
 
支笏湖や十和田湖など具体地をおもいうかべず、「天空ちかい」火山湖という詩篇の設定にのみとらわれれば、そのほとりにちいさな埠頭があり、そこにボート乗り場が敷設されているとは、読者は「かんがえない」かもしれない。詩篇は「呼びかけ」を隠していて、詩の書き手をエーコーに擬する。それもあって現実味を自ら否定するような読みを読者じしんがつくりあげてしまうのだ。
 
もともと水がもたらす魔術ではないのか。おおきくたたえられる水に直面することは、水死の希求をかんがえなくても、そのまま夢うつつの境、あるいは幽明の境を超えさせるような使嗾をふくむ。このとき中本の選択するのが「笑い」なのがおそろしい。「残りの声」(『花と死王』)の以下のフレーズ――《夢の中では/緑色のとろりとした水面に光が射していた/夢の外側にからだを向け/わたしは笑いかけていた》。
 
さきの詩篇「湖」では、風(エーコ―)の呼びかけに反して、湖面に貌を映す「だれか」のナルシス的な振舞が詩文の一瞬を擦過した。ところが岡田温司のイメージ論を俟つまでもなく、どんなに澄んだ水面であっても、そこに捉えられた像は「ありのまま」の当人の似姿ではない。その像はかならず減衰しているのだ。とすれば水の像を愛する自己愛は、実際は自分の減衰そのものを愛する瞞着へとむすびつくことになる。『花と死王』から――
 
【陽炎】(全篇)
 
花びらの降り止まない日
くちづけの中にどこまでも
行方を尋ねていく
 
敗北の長い影を負って
枇杷のつゆに濡れた口で
わたしたちが
時の中からあらわれ
枇杷の種を吐き出して
短い眠りに沈む
 
水の輪の下で
揺らいでは消えていく文字とともに
約束は何度でも消え
 
わたしはなぜ生まれたのか

先立つ未知のものたちの息づかいが迫り
けれど 遠く
擦れ違っていく場所で
 
ひっそりとあふれる水に
もうわたしのものではなくなった貌を映す
 
終結部、なぜわたしの「貌」は、「もうわたしのものではなくなった」とおぼえるまでに減衰しているのだろうか。本質的にエーコーであろうとする中本詩の主体は、その呼びかけ対象であるナルシスであることを縮減してゆくしかないのだが、それを措くと、春から初夏の季語でとりかこまれることで遍歴化した「わたしたち」の「くちづけ」によって(それはエロチックでうつくしいイメージだが、かすかに粘液性のきもちわるさや罪障をふくませている)、「わたし」そのものが減衰したためだ。
 
しかもすでにくちづけはみずからのいる空間の波紋製造にかかわって、空間を水に変え、しかも「揺らいで消えていく」のはわたしの形象ではなく、「文字」「約束」だという逸脱までくりひろげて、それで「わたしはなぜ生まれたのか」というあられもない自己疑念がうまれてくる。こうした無差別性がそのままに妖精的だといえ、それで詩篇はナルシスと妖精という(ちなみにエーコーは声の精だ)分離的形成をあいまいに溶かすのだ。
 
この溶解のはてに、水に映る「わたし」の貌が減衰している。減衰の動因は溶解なのだ。いっけん恋愛遍歴、そののちの加齢のかなしみをうたったものとみえるだろうが、そうした理路よりも自己減衰の無方向性にこそ戦慄すべき詩篇だとおもう。もう一篇、きわめつきの水詩篇が『花と死王』にある。
 
【夢の家】(全篇)
 
バルコニーは海に面していて
といっても
手すりの外はもう海であって
滔々と
夜の海が流れていた
暗く冷たく
 
それは海峡で向こう側には陸地が見え
北の海へと通じているらしかった
 
素敵な家――
わたしは海に手を浸し
塩からい水を舐めてみた
 
海と家の境界はあいまいで
海が家へと逆流することも
ありそうな暗いバルコニーだった
 
どんな人が棲むのだろう
家の奥深く隠れて 揺れている人々を
うらやましいとわたしは思った
 
「空き家」の主題系列。これも図示したくなるような空間提示的な詩篇だ。それでも読者の描こうとする図はこころもとなくなるだろう。もともと水は浸潤性をもち、空間の多孔質を悪用する。そうした危険なトポスにこの「夢の家」は立地している。こう換言してもいい――この家は境界に存在しているのではなく、家そのものがすでに境界なのだと。バルコニーははっきりとはしないが、「海に浸されている」。となればそれは永続できない束の間の均衡によって、やっと存在していることにしかならない(厳島神社のように努力の補修がくりかえされないのなら)。
 
境界のむこうにきえることが死なのでなく、あらかじめ境界そのものが死なのだというこの詩篇の隠れた見解は、罪がすでに罰だという花田清輝的なかんがえにもつうじている。だから「どんな人が棲むのだろう」という問にたいして「罪びと」とこたえることもできるだろう。
 
最終聯にはさらに逸脱――フライング(境界の踏み越え)がある。《どんな人が棲むのだろう》という問の次元では「人」はまだ「棲んでいない」。そのはずなのに、ここでは文体魔術が使用され、次の《家の奥深く隠れて 揺れている人々を》では人々の家のなかでの隠棲がいつのまにか自明化され、しかもその自明化こそが「揺れている」のだった。
 
結語=最終聯最終行《うらやましいとわたしは思った》がまたおそろしい。「あいまい」な「境界」に「揺れている」隠棲者たちに、引き込まれるように「うらやましい」が発語されているためだ。つまり減衰、もっといえば自己縮減、自己消滅が希求されていることになる。それが「たてもの」の描写のあとの最終聯のたった三行に、ちぢむようにしのびこみつつ、それでも余情がひらいているのは、詩のかたちや構成のうえでの奇蹟といえる。
 
見逃せないのが第二聯だろう。第一聯の「夜の海」を受けての第二聯では、そこが「海峡」で、向こうに陸地のみえる視野の狭隘がかたられている。つまり「夢の家」という境界のある場所を、もっとおおきな境界がとりかこんでいるのだ。ところがそのよりおおきな境界は「北の海へと通じているらし」い。よりおおきな境界はそれで自壊している。というか、境界は自壊するという法則がこの詩篇で内在的に示唆されているのではないか。
 
井坂洋子は『詩はあなたの隣にいる』で、中本の水詩篇が「情緒的なことばを一掃している」としるした。それでもそのどれにでもさみしさをかんじるのはなぜなのか。ひとつは材料が、語彙が「すくない」ためだろう。もうひとつは、語調の張りそのものがもたらす自壊の予感が原因かもしれない。ところが「夢の家」ではひとつの例外的な感情形容詞「うらやましい」が末尾にあらわれた――「さみしい」ではなくて。
 
そういえば、もともと「さみしい」にしても、中本詩にあっては自己矛盾的なのだった。さみしい、と語らないことが、さみしい――そこまでのひだを、中本詩から読者は忖度する。清潔な詩のもたらす二次作用というべきかもしれない。この機微をおもわず中本じしんが書いてしまったうつくしい詩篇がある。『黄道と蛹』から最後にその詩篇を引こう。註釈は省く。
 
【無声】(全篇)
 
音のない春の夕方
どこまでも一人きりで時が進む
松の高い梢を見上げたり
まばらな草むらの小さな花に見入ったり
空き家の椅子で休んだり
昼はそんなことばかりしていた
ふと見ると林があさみどりに燃えたって
藤の花は白くやわらかく光り
八重桜は重すぎるほどの秘密を抱えて昏み
狂おしく時が身もだえていた
やがて闇が降りてきて
私はさびしくない  ことがさびしいのだと
遠くの方で教える声がした
 
(この項、了)
 
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