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2015年07月13日09:09

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ネタバレについて

 
土曜日に書いたチョン・ジュリ監督『私の少女』評は、最近になく長大な分量になってしまった。この作品は、中盤以降というか終盤にいたり意外な展開の畳み掛けになるが、その部分を【以下、ネタバレ】と明示してさらに言及・分析したら、それまでの文章とほぼおなじ分量を費やしてしまったのだった。ただし作品の「全体」をとらえるためには仕方がなかった。
 
ネタバレは現在、はげしく嫌われる。とくにネット時代、だれもが書くようになってから、ミステリー小説の犯人、結末のどんでん返しなどを得意顔でしるす者の、「まだそれを知らない者の愉しみを事前にうばう越権」が糾弾される。だから学術的なミステリー分析などがネタバレ可の例外となるだけだ。むろんそれは学術の鎧にまもられている。不特定多数が閲覧できるネット文章では、事前のバリアすらなく、けっしてそうはならないだろう。
 
ぼくがネットで映画レヴューなどを発表するばあいには、その詳細な分析が劇場体験じたいの代替にならないよう、ラストのごくわずかを「ぜひそれは実地見聞を」と書きのこすことが多い。興味によって対象をぎりぎり吊るのだ。たいていぼくの文章は多中心的でバロックだから、なにがネタバレになっているかわからないともいわれる。映画を鑑賞したひとにのみ、ほんとうに腑に落ちる詳細を全的に展覧しようというスタンスだ。
 
ともあれネタバレ攻撃は、評論の全体性を「得意顔で」抑圧する「評論嫌いの態度」をふくんでいて、これまたネタバレ文章同様に傲慢だ。傲慢vs傲慢は利権衝突の熾烈さをあらわす。排他的な図式のなかで再獲得の目標になっているのが自己愛だ。ただし現在はもともと評論が倦厭される時代だから、こう語られるだろう。映画など簡単な印象批評でいいではないか、ネタバレの地雷を踏まない好態度で、友だちか有名人かが褒めていることのみ重要だ――と。
 
むろんネタバレ批判が全的な評論を抑制してしまう事態は、やはり看過できない。ネタバレする評論は学術本か学術誌に書かれればいいといわれるかもしれないが、そこは専門家需要域で、読者数などもともと期待できないのだった。たとえば映画ではそれが困る。
 
ミステリーの犯人やどんでん返しを先行者の特権で場所も弁えずに明示してしまうのは論外だが、意外な結末にふれている文章そのものは、その精度の質によってのみ擁護されるだろう。他の部分の精度がネタバレ部分と有機的に連続していれば、文章全体の組成が一体的に納得されるということだ。こういうと元も子もないようだが、つまり良質な評論だけが、ネタバレの結果させる驕慢を回避できる。この意味で現在のネタバレ糾弾の風潮は、逆に映画評などへのとりくみに正しい緊張をあたえるともいえる。
 
映画とは奇妙なものだ。それは鑑賞が鑑賞のみならず、祝祭的なイベント性をも包含するためだ。ただしぼくの評論対象には、おおむねそんな派手なパッケージはない。書かなければより見逃される脆弱な対象でしかない。そんなわけで、時と場合によっては【以下ネタバレ】と明示することで、観客の愉しみを最小限まもればいいのではないか。【以下ネタバレ】以降は、おのぞみなら作品鑑賞後に読んでもらえばいい――そんな二元性を慣習化したい。
 
かんがえてみれば、たとえば詩篇の分析にはネタバレがない。終結部は印刷されたものの同時性として実際は読者の眼にほぼ一挙に明示されるし、詩篇の終わりかたにも評価のひとつの基準があるのだから、かえってネタバレしない評のほうが不完全という逆転まで生じてしまう。
 
音楽評にもネタバレがない。けれども漫才評やコント評にはネタバレがある。こうして例をあげればわかるように、時間芸術か否かという区分ではない。いうなれば抽象性(詩と音楽)と、具体性(映画とミステリー小説と漫才とコント)とが、メディア形式のなかで一般的に二分されていて、その弁別線がネタバレ忌避という極点から反照されていることになる。ネタバレ攻撃はメディア批評をふくんでいるのだ。
 
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