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2015年07月02日08:51

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あたらしい詩集のゲラをチェックした

 
【あたらしい詩集のゲラをチェックした】
 
 
分数においては分子が作用域で分母が作用道具――そう理解しているが、これが数学的にただしいかどうかわからない。いずれにせよ、おそろしい戒律がある――《ゼロはほかの数で割れるが、ほかの数はゼロでは割れない》。
 
なぜそうなるのか。「ないもの」をいくら分割しようとしても、それはないものにすぎない(平穏はたもたれる)――のにたいし、「あるもの」を「ないもの」で分割しようとすると、「あるもの」が悲鳴をあげる。存在からそれ以外の余波がでる。悲鳴など、あげさせておけばいいのだが、分割にかかわるこの干渉的な逸脱が、数学そのものの禁忌にじつはふれるらしいのだ。自己言及パラドックスが露呈してしまうということだろうか。いずれにせよ、《ゼロで割れば、せかいが破裂する》《瓦礫になる》。
 
「わたしじしん」を記述するときに起こるもんだいもこれに似ている。たとえば「わたしは義しい」という自己言明は信憑をえない。処刑直前、刑吏たちにかこまれればすぐにわかることだ。《おまえはじぶんじしんの領域を、ゼロ=「ないもの」で割っているにすぎない。じぶんじしんから要らぬ余波をだしてどうする。さっさと処刑されてしまえ》。
 
そんな局面ではどうすればよかったのか。刑吏のひとりはいった。「みたものを、みたものとして列挙すればよかった」「おまえの感官の所在はわかるが、おまえじしんはきえているだろう」「きえているだろう」「おまえは感官と手にすぎない」「この、すぎないことがおまえだ」「おまえはおまえの反響にすぎないが、そのこだまにはもともとの音すらないのだ」。
 
なにかをしたとか、なにかをかんがえたとか、動作や思考は記録してはならないのだろうか。「ある――やりかたはある――動作や思考は、おまえじしんのものでないまでに、かすませるのなら、それを記述できるのだ。こつは、ぎりぎりゼロでないもので、じぶんじしんを割ること。おまえのしたことから、ぽろぽろことばが落ちていって、やった場所と、書かれているそことが、いよいよ離れてゆく。だから記述されているのも、おまえじしんのしたことではなく、せかいのしたことにかわるだろう」。
 
納得した。さてそのようなものを書いただろうか。めんどうをかんがえるのをやめ、処刑された。
 
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