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2015年07月01日11:54

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森泉岳土について

 
【森泉岳土について】
 
 
昨日は市川春子についてしるすなかで、ほんのわずか、おなじ「天才マンガ家」として、森泉岳土につき言及した。実験的なマンガ手法という点で森泉の既刊コミックすべてがすばらしいが、それにしても森泉の義父が大林宣彦監督だという「事実」には、なんど思い返してもおどろいてしまう(彼の細君は大林千茱萸さんなのだった)。
 
森泉はコミックごとに「あとがき」で自己解説をしっかり書いている。2010年ごろ、マンガにとりくみはじめた当初は、「水をつかって描いていた」という。墨を水にとかしこんで、水墨画のようにえがいていたという意味だろうが、容易に想像されるように毛筆がもちいられているわけではない。初期は爪楊枝、その後は割り箸が画筆のかわりになった。線は緻密にこすりつけられ、しかも毛筆をもちいるよりさらに不自由だろうから、密度の反対――いわば「粗度」が拡大することになる。かつて黒田硫黄が毛筆でマンガをえがき、粗度の拡大によって禍々しいリアルを実現した点は、とうぜん森泉の念頭にはいっているだろう。
 
ところが森泉は画筆の不自由「によって」もっと過激にえがく。このときペン画―トーン―スキャニング系のマンガ家にはない別要素、つまり「こすれ」「にじみ」「よれ」「ゆらぎ」といった、精確な線描よりもさらに逆に精度のたかい、「ニュアンス上のなにか」が読まれることになる。しかも粉彩などオルタナティヴな絵画技法が部分的につかわれたり、たとえば映画でいうディゾルヴがコラージュのかたちでコマ時間を多層化したりすることもある。風合いが木版画をとつぜん喚起するばあいすらある。フキダシも作品それぞれで表象方法を変えるなど往年の岡田史子のようだ(彼女もマンガ的な装飾性を離れ、ムンクや腐食画を参照したことがあった)。
 
絵柄の前衛性(なおかつそれは感触としては温かい)にたいし、さらに驚嘆すべきは、森泉のネームづくり(コマ割構想、ネーム構想)のスタチックで古典的な精密さだろう。ネームづくりに充分に手間をかけ、作画にも多大な労力を傾注する森泉のやりかたは、たとえば高野文子をほうふつさせるものだ。しかも大胆な画角による大胆な構図、ときにコマを頁ぜんたいで縦に三分割したり、見開きの大ゴマをもちいたりするなど、コマ連関のリズムに、画の精度を拮抗させるなども高野の技術・着眼を踏襲するものだ。むろん踏襲があっても、マンガ表現の可能性は一作ごとに開花している。
 
森泉マンガは異端視から重要視へとポジションを変化させてゆくにしたがい、とうぜんながら徐々に画柄的な可視性がたかめられ、コマ割・構図・画力の創意的な適確さへとシフトをうつすようになった。画筆としてもちいられるものが、爪楊枝から割り箸にかわったとき、抵抗圧のなかで点をゆれながら線にする爪楊枝よりも、ちいさいながらも角材的な稜のある割り箸のほうが、操縦性がたかいのだろう。
 
爪楊枝時代に起こっていたのは、黒化=腐敗(ニグレド)、対象の凝集化・瘢痕化・逆光傾斜といった、ジャコメッティ(彫刻でも絵画でも)につうじる事態と、それにより目鼻をなくしシルエットのみとなった人物たちが必然的に織りなす、やりとりのアレゴリー化だろう(これはカフカ的であり、黒沢清的でもある)。
 
いいかえれば事態は正接でもあり逆接でもある。読み手がいまみている「界面」に不安をおぼえればいいのだ。そうすればたちどころに、凝集は膨満と同時的になり、不可視化(朦朧化)は可視化(明澄化)と同義となる。ゆらめいてくるのは、動物的な、アレゴリー特有の「磁気」(カフカや黒沢清にあるもの)だろう。
 
ゆらめきは、画法と物語相互を分離不能に双対化する。だから森泉の初期作品の体験は、「ひとつのものを双子としてとらえる幻惑」と不即不離になる。これを融即といいかえてもいい。このために彼のマンガは「詩的」とよばざるをえなくなる。
 
このあいだ詩の朗読をして気づいたのだが、朗読と詩が離反しないためには、「物語詩」が選択されるのがいちばんだろう。ところが小説の朗読ではなく詩の朗読に接しているという感慨を聴き手にあたえるためには、「なぞらえてなす」アレゴリーの屈折がひつようとなる。
 
この「なぞらえ」は森泉のマンガではどこに出てくるか。読み手の眼が不可能性を突破して、画柄という言語化不能なものの「朗読」に、自他の弁別をこえて巻き込まれている感触にそれは顕れる。どういうことか。ざわついているものはいつもイメージであると同時に言語だから、いわばその動勢に物語―画の双対が出来し、だからこそ画のなかにアレゴリーが生物的に混在してしまうのだ。
 
画は破裂すると同時に破裂を定着する。その定着の痕跡が刻々と物語になってゆく。そういう経緯だから物語は事後的・二次的という「なぞらえ」の経緯をおぼえさせるともいえる。ところがその「なぞらえ」は付与されている装置のおこなうものではなく、徹底して無媒介性がおこなう。読者は自己身体と弁別できない「読むことの界面」がしずかな幅でうごく不安をかかえるだろう。
 
つきあいと別れの記憶を、抒情的に「旅体」化したネーム構成・コマ構成の奇蹟が短篇「耳は忘れない」だとすると、アレゴリー型マンガの不気味きわまりない達成点が短篇「トロイエ」だろう。頁単位すべてで、画の抽象性と具体性とが拮抗している。しかも童話性が組織されている。爪楊枝による線画はたとえば人物・事物の輪郭をゆらす。ところがそのゆれが抒情的な愛着までも吸引するから、「不気味」は「かわいさ」と弁別不能になる。むろんこれもまた、人口に膾炙した寓話の流儀だ。
 
それでも恐怖の芯がある。物語の構造は単純だった。漠然とした西欧が背景。時代もさかのぼっているとおもわれる。おおきな邸にメイドとして奉公を開始した若いむすめが、勤め先にいるはずのない「兄」の干渉をうける。兄は稀薄を病み、みずからの存続のため、日ごと妹を「吸い」にくるのだ。こうした奇抜な着想は画柄的な意味性と見事な連関をみせる。つまりすべての人物がシルエットの黒化状態でえがかれているために、命を「吸う」ことと、影を「吸う」こととに混淆が起こるといっていい。
 
妹のエキスを得た兄は次第に黒い身を怪物的に膨張させてゆく。実直に、伝授された邸の家事にとりくむ妹はその反動で次第に縮減化してゆく。愛(性愛)の差引勘定。妹の痩身化や体長の短縮化を怪訝におもうメイド長にたいし、メイド長の錯覚をいいつのる妹の粉飾言辞に、いわば愛と宿命両方にわたる、ゆがむ叙述形式がある。ところがやがて窓外に、巨大な黒のかたまりとなった兄が顕在化し、異常事態が隠せなくなるにおよび、いわばラカン的な「しみ」がすべての前提になってしまう逆転もしくはクライマックスが成立してしまう。制御不能性のもたらす破局。
 
すべての人物がシルエットで、目鼻がない。ただし圧倒的な黒なのに、微細にはそれがかすれている。兄の黒の膨満は、したがってそのかすれの審級では自己矛盾的な亀裂であり、界面は膨満を体現するが、界面間をしるす亀裂はむしろ空間占有の疲弊により、存在の凝集へと転化する――そういった二重性をうごきのなかにただよわすことになるのだ。事態は古屋兎丸「エミちゃん」の死体描写に似る。そう、こうした怪物性にはたしかに既視感があった。
 
逆に妹の「縮小」には既視感がない(『不思議の国のアリス』の細部にはそういったものが揺曳していたかもしれない)。縮小はそのまま「生」「性」の減少であり、喩の減少――減喩であり、病弊化のせつなさにも転じられる。ところがコマは必然的に構図選択をおこなうのだ。だからちいさくなった妹がおおきくとらえられ、シルエットの長髪の形状が妖気化する。無性だった妹はその影をメス化させてしまう。ここでは兄と逆に、凝縮が膨満しているといえる。
 
では界面はどうなったのか。構図が矛盾を生産することに、森泉の天才はとうぜん自覚的だった。つまり膨満が凝縮を画柄上覆ってしまう逸脱にたいし、森泉はそこへ濃度変化を対抗させる。それでおおきくとらえられた、ちいさい妹は、逆の状態の兄がそうだったように、「うすく」なるのだった。
 
巨大化と淡彩化とがひとつの界面に同存するのが想像力の恒常性だとすると、じつは凝縮化と淡彩化の同時性は世界法則上ほぼありえない。「宝物」のみにありえるものだ。それが化学変化的に出現、この悲劇的な妹にたいし「情」をおぼえることになる。気づくと、ほぼ黒として表象された妹の顔から、たしかに具体的な哀しみの表情がみえてくる。そうして不可視性と可視性の同時化が出現したのだった。
 
だが、わたしたちは知らなかっただけではないのか。もともと「惻隠」とよばれる念そのものが、凝縮化と淡彩化の、心情裡における化学融合だったと。おおきくなるときではなく、ちいさくなるときにこそ、わたしたちは真実にふれる宿命をもつ。これこそが「気品」という問題圏にかかわるのだ。
 
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