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2018年04月06日21:40

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殺人者の記憶法

 
【ウォン・シニョン監督『殺人者の記憶法』】
 
今年1月末にシネマート新宿で公開され、それを受けて札幌ではディノスシネマズで公開されたウォン・シニョン監督『殺人者の記憶法』は、上映があっという間に終わり、残念なことに見逃してしまった。イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』のあの主演者=ソル・ギョングが主演、しかもアルツハイマーにかかった連続殺人鬼の「記憶の不安」を描く(なんという「アイデア」だ)、というチラシを見て、どうしても観たかったフィルム・ノワール臭ぷんぷんの映画。これを仕事の関係から観る必要があり、配給会社のご厚意で、たったいまDVD鑑賞をすることができた。以下はメモ。
 
まあ、多くの韓国映画は、「俳優の表情」「カッティングによる説明」「音楽」「物語量と物語反転」「トラウマ」などが過剰なのだが、これら過剰を鬱陶しいとおもうと、特有の「ガッツ」までおもしろがれなくなる。グッドセンスなど二の次なのだ。そうした泥臭いお国柄のうえに、フィルム・ノワールが開花したのがこの『殺人者の記憶法』なのだから、とうぜんフィルム・ノワールの要件=「一人称ナレーション」「フラッシュバック」「前提の解除」「ストーリーの迷宮性」なども鈴なりとなる。練達のフィルム・ノワール・ファンまでめまいを起こしそうな怪作なのだった。
 
状況を整理しよう。若い頃に連続殺人鬼だった現在50がらみの男がアルツハイマーを患いはじめる。往年の殺人の記憶は薄れかかってきているが、不快なものにたいする突発的な殺人衝動ならのこっている(詩の教室の設定が秀逸)。その自覚もある。彼が唯一溺愛するのは男手ひとつで育ててきた愛娘。しかしやがて娘だと認知できなくなると、彼女まで殺してしまうかもしれない。この怯えが、作品開始時の基調となる。
 
黒沢清の映画がよくおこなうように――あるいは『羊たちの沈黙』もそうだったように、この映画、要素がひとつ多い。連続殺人鬼がじつはもうひとりいて、それがやがて娘の恋人の座におさまるのだった。表向きは警官のその男と主人公は、互いの正体を、直観と発見を活かして即座に見抜くが、主人公がアルツハイマーなのでこの対立構図も不安定にゆれつづける。「憶えていること」「いないこと」が無方向に点滅し場所を入れ替えるためだ。結果、映画における「過去の叙述」が覆りだすなど作品の信憑がぐらつき、また娘の恋人も記憶の誤作動を陰謀的に主人公へ仕掛けつづけることになる。何が本当かわからず、その不安定さによって逆に画面の細部の魅力を増す――それがフィルム・ノワール一般だとすれば、この映画は主人公の記憶にかけられた負荷とアレゴリーによって(良いことかどうかはわからないが)もともと過剰なフィルム・ノワールをさらに過剰化しているのだった。
 
ともあれ「記憶」と「連続殺人」が鍵なのだから、設定はちがうが着想は黒沢清『CURE』的だ。じっさい黒沢映画的なロケーション、建物構造も頻出し、まるで『CURE』の細部パーツを入れ替え、別の全体パズルを仕上げたら、この映画になるような気がするほどだ。主演ソル・ギョングは『ペパーミント・キャンディー』のときは井川耕一郎くんに似ていたが、その後は「カメレオン俳優」の異名どおりに大杉漣に似ているなどともいわれた。この映画ではその長髪時は、役所広司の骨格に内野聖陽の目鼻を乗せたみたいだ。ただ役所広司をおもうのは、黒沢作品との類同のためだろう。ちなみに、娘の恋人役キム・ナムギルはロングで見ると、星野源をおもう。娘キム・ソリョンは恒松祐里かなあ。
 
むろん影響源は黒沢清だけではない。主人公ソル・ギョングは日記がわりに眼前の認知、それと自己行動を、娘の言いつけでたえず日記的にテープ録音していて、これはブレッソン『白夜』からの由来だろう(このテープ録音内容が「物を言う」とき、この作品の暗い視覚性以上に、ハイセンスな衝撃が走った)。クライマックスでは主人公と娘の恋人の肉弾的な死闘があるが、そのエモーションの質はアルドリッチ『北国の帝王』のリー・マーヴィンとアーネスト・ボーグナインの衝突によく似ている。最後には「怪物とは何か」という、ニーチェ/バタイユ/トビー・フーバー/黒沢清的な哲学が図太く中心化される。このてんこ盛りの映画は、カルト化するしかないだろう。その証拠にネット上の評価も、大絶賛から大批判まで両極的だった。もうじきDVD発売日も決定するのではないか。
 
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