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2017年03月17日11:44

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雑感3月17日

 
詩集が一回性でのみ読まれることを、詩作者じしんが回避しなければならないのは、とうぜんのことがらながら、なかなかつらい仕儀とはいえる。自分自身にかんしても、寄贈されてきた詩集が一読のすえ、再読のひつようなしと判断され、部屋の隅につみあげられてゆくときたしかに後ろめたいきもちになる。残酷なことをしているのだ。だから再読誘惑性とはなにかという問題は、とりわけ自己保守にたいしておこなう体験的な設問とまずはならざるをえない。
 
再読誘惑性とちかい感触をもつのは、こう書くと意外におもわれるかもしれないが、「中間性」だろう。「わかりすぎないこと」と「まるっきりわからないこと」との中間。「魅了されすぎること」と「ぜんぜん魅惑をおぼえないこと」との中間。これら中間性を時間軸に移せば、レヴィナス用語にいう隔時性ともなる。ある細部を調伏すれば、べつの細部が目覚めてゆくような詩集空間の平定不可能性は、それらがざわめきつづけるもの、死物ではないものという詩集固有の属性をあかしする。この属性をもって、詩集が再読誘惑をもつことになる。こういえばいい――再読誘惑性とは「いきもの」にたいする殺害不能の感慨なのだ。
 
詩を別水準から分析するならば、それが多様多層な「順番」で織られていることはあきらかだろう。音の順、語順、構文の順、詩行の順、聯の順、収録詩篇の順。順番が明視的だというのはたんに物理的な眼前性に支配されているだけの錯覚で、詩篇が読者に咀嚼され、内化されてゆく段階では、記憶力の優劣によらず、順番はいつもなにか迷路のような不明性をたたえてしまう。そうおもって、あらためて詩篇などをみると、語順など微細のレヴェルにかんして「なぜこの順番なのか」がそれじたい挑発的な表情をもちだし、ことばはほとんど顔の幻惑とひとしい独自性をくりひろげている。顔では目鼻がそのように表情をもってならんでいる代替不能性が誘惑なのはいうまでもない。
 
詩は、「存在」からうまれている。同時にことばからたんにうまれている。この判断の同時性が中間性ともいえる。詩篇細部に視線をいろいろ移せば詩は隔時的な「分離層」をもちはじめ、途端に要約不能となる。さらにはその「層」こそが顔貌性をたたえている感慨まで生ずる。とすると、詩集の再読は、ほとんど会いたい顔との再会にひとしいことにもなってしまう。観念化できない残滓がそこでは残滓ではなく本体なのだった。
 
ほとんどの詩篇では意味をつたえようとすることばが、その詩篇内に一回的に生じている法則により、順番化されているにすぎない。けれども「わたしは・きのう・丘を・きみと・あるいた」などの平叙組成のみでは、書かれたものは詩文とならない(むろんこうした文体が構文連鎖で詩文に変容することはある)。順番をくもらすものが順番そのものにくみこまれて、空間的時間的な整序性がどこか「文字通り」になっていない変調が、誘惑する多くの詩にかんじられるものだ。しかもその原因がたんに昂揚ではなく、認識の練磨によるところが、ほんとうに再読誘惑性をもつ詩篇・詩集の要件となる。オブスキュアなものが逆に明白性を救出する転倒。これは少数派が多数派を解放することに似ている。
 
いいかえよう。順番は磁場に現れた途端に「非―順番」となり、ことばのつらなりはこの乱調を平定できない。ことばの物質的な現物性のすきまに「中間」がさまざまみなぎっていて、用語と用語とを、正順のみならず、逆順/間歇(隔時)/照応不能など多くの不測性へと攪乱してゆく。この面倒な事実に愛着を呼び込むのが詩文の磁力だろう。
 
愛着は想像する。詩篇の細部を書きつけている作者の手は、順番と非―順番の双面性を立体として手許に転がしていて、その平穏な表情のなかには受苦が仕込まれていると。たとえばことばのつらなりが哲学的な示唆をおこなおうとして詩は破産する。ことばの物理的な順番が非―順番として逆露呈してしまうことにより、示唆が示唆の途端に破綻する。このとき哲学文より優位なのか劣位なのかわからないのが詩そのものをとりまいている救済なのではないか。
 
語彙の謎ではなく、順番の謎。着想の謎ではなく、そのもののあらわれの謎。それじたいはほとんどがさびしい表情をしている。そこに「顔」の誘惑がある。手柄意識で書かれたものの「したり顔」には駄目な自分をふりかえるようなつらさがあり、拙劣な詩よりもさらに再読の誘惑をかんじない。読むたびにことなる表情をおびる点滅性がそうした類型の詩集では殺されている。いつもと・おなじ・したり顔。点滅性は、順番と非―順番の分離不能の交錯からうまれ、おとなしい反作用であっても、さみしい挑発であっても、全体の調伏不能を印象させる。むしろさみしさが量的なすくなさとかかわるとき、すくなさがたんにすくなさではない戦慄が、ことばの表面的な順番のあいだに、なにかの中間性を覚醒させるつよい要因となる。
 
アクセルがある。けれど、理に落ちないための、常識に復さないための、ブレーキもあり、そのブレーキは意識ではなく、ことばそのものから組織されている。行け・退け、相反するふたつの方向力のなかで、ことばじたいが割れ、表面がすでに奥行きになっている。たとえば謎〔エニグマ〕とつぶやいて、それがそのまま《沖は在る》と、なにに貢献するかわからない断言を呼び、詩篇が閉じられ、この中断が深甚な余韻となる(吉岡実「楽園」)。そこになにが起こったのかを哲学はいうことができない。
 
「在ること」の示唆はなんど挫折し、その挫折をもって読者を再読に付かせただろう。《鶏頭の十四五本もありぬべし》では「強意推量」が「十四五本」という存在論的不確定性とむすびつく哲学上の幻惑が起きている。《草二本だけ生えてゐる 時間》では時間に物象の干渉が起こり、時間の限定性が無限定性へと解放寸前になっている。順番と非―順番との交錯とは原理的にはこうした俳句的措辞に裸出されている。とりあえずこうした詩に現れている「在ること」が再読誘惑の郷愁と無縁ではないとおもう。
 
再読誘惑性はだから、書きすぎないこと、自意識を露出しないこと、下手なものを書かないことの防備からもはや生まれるのではなく、詩が詩であることの原理から生まれるとかんがえなおすべきなのだろう。そうした誘惑をもつ詩集をつくりあげることは、はたして「注意力」の賜物なのだろうか。そう自問して、気がとおくなる。自分に舞いおりてくる恩寵を頼みにせざるをえない。そうか、詩はそれで「生」なのか…
 
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