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2017年03月01日15:32

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雑感3月1日

 
放心からなにかの感情がすこしずつ復活しだす――その最初の「戻りっぱな」を詩が書きたい。最終形ではなく。むろんそれはかすかすぎるのだから感情のことばでは明示されない。表情を書こうとして、書かれたことばがむしろ表情になってしまう機微、それだけが「すくなく」現れる。あの再帰の感触がなつかしいのだ。
 
蛋白石の刻々かわるかがやきにみとれるように。大理石の模様のしたに視線がはいりこんでゆくように。うすぐらいものはうすあかるい。くらさ・あかるさのあいだでうごく。そういうのがたとえば再帰の感触で、そのままそこに「顔」がおぼろげに形成されている。しかもそれはすこし隔絶した位置にあり、それゆえにひとと、ひと以外とを、同時に生気させている。
 
詩作がいちど死んだあとに蘇生が起こる。その最初の「戻りっぱな」はうすく、ゆれている。経験があるだろう。だから疵のようにもみえる。それは顔の疵なのか。いや、ことばの疵ではないのか。
 
ゆめの放心の十代が、感情のもどりゆく二十代へ突入して、その最初の体感が客気をもって報告された――そうおもわれたのが最果タヒの『グッドモーニング』だった。一九八六年生の著者がつくりあげた二〇〇七年刊の第一詩集。
 
あたらしい感情をつくりだすために、自―他を創意的志向的に架橋してゆく、現在の最果にみられる修辞の果敢なフライングはまだ全開的でなく、ところどころその鮮やかな原型が開口している。夜明け前。朝。睡蓮の開花。ながれはそのようだが、語りの「単位節」の分布はもう現在の最果の詩とおなじだ。ただし字下げや符号のトリッキーな使用により、連辞のなかにふくざつな視覚的空白が介在、かたちどおりの転記がネット画面ではむずかしい。だから単純化して一節だけ引く。
 

 
(き
こえる
 
怒声
ひとがですね
ひとをおこる
ときはですね
、土星のわっ
かがですね、
あたまにでき
るんですよね
。わたし、そ
れを目で追っ)
ていて、何度も殴られるんですけれど、
 

 
「怒声→土星」。音韻による別地点への架橋はみやすい。けれどもおおかたはメランコリーにむすびつく土星(の輪)が、ひとのいかりのとき天使の輪として現れるとされている。この着想は不当使用だろう。換言すればこれもまたあざやかな架橋性で、しかも同時にオブスキュアなのだった。架橋は「おこるひと」「おこられるひと」「わたし」の三者の圏域を説明なしに形成する。その「三」が開花の様相にみえる。前提のない開始。いや、前提としてひとつの無表情だけがあるともおもえ、そこへ読者はかくじつに遡行できる。その土地の名が「放心」なのではないか。ともあれ三者には顔がなく、その不在が顔になっている。
 
もちろん放心とは世界の表情だ。世界は表情において放心している。それが「ほどかれる」とすれば、ひとがそこをうごき、静止に動勢をすこしずつ摩擦させてゆくしかない(犬をはじめとした動物は、世界の放心のなかに放心としてとけこんでしまう)。それで散策詩がたっとばれる。散策詩とは放心に上書きされだした、あるかなきかの表情、その「戻りっぱな」の表情ともいえるだろう。なつかしさが必定なのだった。
 
今鹿仙の、ほんとうにちいさい、二〇〇六年刊の『マゴグの変体』。たぶん第一詩集だろう。だから傾向はちがうのに、最果タヒ『グッドモーニング』同様、放心を経過し脱出した、その瞬間の空気がかんじられる。ちなみに「マゴグ」は聖書中の神の敵対者。それが「変体」する(この「変体」は「変身」とたぶんちがうはずだ)。敵対は各詩篇にかんじられない。散策のうごきが伏在的敵対を馴化し、自―他の放心の幅に変体をくりひろげている――そう読んだ。詩篇「秋のひびき」、その出だしから全体の中途くらいまでをまず引く。
 

 
十月の終りにかもめ人は
苦悩したのだ
すすきを食う魔人の封筒は
果ての世界にあてた
秋の矢印だ
詩人は何も言わないでデ
カルトを変形したような
さびしみをきく
「冬は雪に埋もれて小屋
が経文でいっぱいになる」
心はへき地に向かうのだ
ただ石碑を崇める牧人の
通過に遭いたいものだ
虫の鳴くまひるの路で
頭を皿のように傾けた
歴史があった
ひたすら水霊の唄をさげて
天国へ行け 女神の
庭のがらくたのひびき
知覚のアポローン的角
聖歌隊と茄子の畑の起伏
これらも二度とは同じ輪廻
をめぐらない
 

 
今鹿は「詩作がいちど死んだあと」の「いちど」がかなり長かったのではないだろうか。それで学殖というべき教養の間歇のされかたが、そのまま詩行の呼吸にすばらしい意味的空白をつくっている。詩集に収録されたどの詩篇にしてもそうだが、西脇順三郎が現在的に参照されている。語彙、散策経緯と同調した改行経緯、しかも西脇がごくたまにおこなった語の途中の不規則改行がさらに頻繁になることで、ノイズ要素の交響がより濃密になっている。
 
わかるようでわからないことのすばらしさが詩行に展開されているのは、ごらんのとおりだ。ただし明白につたわってくるのは、放心のあとに兆してきている感情が、感情語ではほとんどしるされず、ただ表情化されていることだろう。それが再帰の感触をおびて、なつかしい。
 
「ひと的なもの」がばらばらに布置され、それらが交響を誘引している。そのいくつかは判明性をうばわれている。列挙してみよう。「かもめ人」「魔人」「詩人」「牧人」「水霊」「女神」「アポローン」「聖歌隊」。これらは相互関係でもあるが、相互の無関係でもある。この同時性に、「世界の放心」がにじんでいて、そこを「何者か」が、自分ではないもの(たとえば牧人)を身代わりにして通過しているのだった。
 
掲げたなかの「水霊」は「水妖」ではない。もっと物質性をあたえられた「水そのもの」にちかいもので、美には関連できないだろう。誘惑するのではなく、それは「ある」。この「水霊」を媒介にすると、詩集最終篇「放物線のリリク」後半へと上記の詩篇前半が接続できる。転記して終わろう。ここでも逐一的解釈はつつしんでおく。とりあえずは先の掲出部分との同一語彙、発展語彙に注意してほしい。
 

 
「我々は悲しみを持たない
マゴグの変体の臼のようにのろく
水にもぐる」
未だあらゆる詩人の恐れる
(ルサンチマン)は来ない
水霊の作用だろうか
あの建造物にすみつくのは
余程の哲学か奴隷である
こうもりと楽人
日付を知る紙の神話的
ざくろの垂れ
円頭形に女は傾いて
秋人と竹林をそれる
のが習いだった
「この世には川魚を食う
人種が少ないのか
あまり知り合いが居ないのです」
女は夫人になって嘆いた
没薬の天使のゆがみや
温泉を司る男のつまらない
くらやみも捨てて
平らさを憧れとする日に
近づくのだ
詩人と連れは遡って海に
植物の顔を覆うたそがれを探した
「それは大きくそれている」
放物線に
 
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