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2016年04月08日23:33

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近況4月8日、あるいは註について

 
【近況4月8日、あるいは註について】
 
北大大学院文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌「層」のための原稿を仕上げ、いましがた編集長の押野先生に、データ入稿した。題して「映画の犬 ――『ホワイト・ドッグ』『シーヴァス』をめぐって」。サミュエル・フラーの往年の問題作と、トルコのカアン・ミュジデジ監督の2014年ヴェネツィア映画祭審査員特別賞受賞作をならべることで、犬の獣性の本質、またそれを描く映画性に何が必要かの考察をつむげるとおもった。媒介項として、ピエール・ガスカール、ヴァルター・ベンヤミン、ドゥルーズ=ガタリ、ジャック・デリダ、ジョルジョ・アガンベン(間接的にはハイデガーとレヴィナス)などを参照、詩作者ではとりわけジュール・シュペルヴィエルと村上昭夫を導入した。
 
ぼくは「映画批評」「現代思想」「詩歌」に引き裂かれているとおもわれているかもしれないが、上記三つは自分のなかでは分離していない。たとえば自分の映画批評には詩的な飛躍が瞭然としているし、自分の詩論には映画批評と同等の物質性への注視がある。このあいだ北大から日本女子大へ栄転した川崎公平さんからは、だから阿部さんの映画評論は日本一エロチックなんですよ、といわれて嬉しかった。そういえば昨年最も優秀な修論を仕上げたK君も、ぼくの評論系の著作ばかりでなく、詩集も愛読して、ぼくの評論/詩を分離していなかった。このあたりのことを昨日、新修士課程、新博士課程となった院生に話した。指導教員の研究に近づきすぎると危ないなどという言い方があるが、臆説でなければ都市伝説のたぐいだろうと。
 
それにしても瞬間発想によるズレもつかうぼくの換喩的な書き方からすると、学術論文の作成はじつに面倒くさい。それでも基本に立ち返り、引用文献表は事前につくる律儀さがある(内容構成案はあまり事前に綿密にしないけれども)。今度の著作『詩と減喩』では岡井隆論などでそうした。掲載誌が学術誌だとおもったためだ。ただし註記は分離独立させていない。文献註だけとしたので、文中の括弧に繰り込んだ。

「層」掲載のこれまでのぼくの諸論文では註記は立場上、独立させてある。それで註記部分の長いのがさらに目立っただろう。院生には「註があれば学術論文だとおもっているんでしょう。厭味ですか」と笑われたこともあった。しかもぼくの論文は、出典註のみならず、註のなかでさらに考察が展開されてゆき、本文の傍流、裏打ちが複雑にわきあがって、全体がバロック化する。
 
今回は、ついに註の文字数が本文の文字数を上回ってしまったみたいだ。まあこれは、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『アモーレス・ペレス』への長い考察を註に組み入れたためなのだが、たしかに常軌を逸しているといわれるかもしれない。たしかに註が本文よりも長い書き手はいる。まずおもいうかぶのが、ドイツの民俗=歴史学者のハンス=ペーター・デュル。彼の本などは、本文から註をめくらずに、本文を通し読みしたあと、註を通し読みする。ぼくの論文もそうされるのだろうか。
 
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