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2015年07月30日11:56

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恣意的な気づき

 
ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』は学生時代から、ほんとうにすきな短篇集だ。「文学の電気王」の称号にふさわしいシニカルな奇譚が目白押しだが、評判の集中するひとつが「ヴェラ」だろう。
 
サンボリスム的に絢爛な修辞を除外すると、「ヴェラ」の大筋はこうだった。
 
美貌きわまりない少女ヴェラを主人が娶る。うつくしい幼妻に崇敬と愛情を注ぐしずかな生活(それは繊細な召使によっても支えられている)。けれども新婚わずかにしてヴェラがはかなくなってしまう。
 
ヴェラの夭折を主人はみとめたくない。質朴従順な召使もおなじだ。それで「ヴェラが生きている」ままの状態を生活が維持する。たとえば料理の皿はヴェラの空席にもはこばれ、往時どうようヴェラのいた場所へと日常の他愛ない話しかけが継続される。召使も丹念に主人の願望に沿う。すべてが燭光のなかの秘教的なパントマイムに似てくる。するとあろうことか、数か月後こうした「信念のつよさ」により、生きている往時そのままに、ヴェラのうるわしい美貌、存在、振舞が、彼らのまえにゆっくりと現前しはじめたのだった。運命によってなされた秘匿はひかりをともなってくずれはじめた。
 
「信念」の勝利だった。ヴェラの神々しいすがたに主従ともども歓喜しているそのさなか、だが瞬時、気散じ、気まぐれが主人に起こってしまう。主人のこころに「常識」がわだかまる――「でもかんがえてみれば、ヴェラは死んでいるんだよなあ」。そう口にした途端、かなしみを表明するいとまもなくヴェラが忽然と無明へ消えたのみならず、主人―召使が幻想の棲処としてきた彼らの邸じたいすら、すべて音を立てて瓦解してしまったのだった。惨劇、災厄による一篇の終了。
 
とつづれば理解されるように、「恣意的な気づき」、その残酷こそがこの短篇の主題だった。なるほどこれがじつは最近は多い。「かんがえてみれば、好きではなかった」「かんがえてみれば、ここで働く必要などなかった」などと。
 
典型が、マクドナルドのいつまでも恢復しない業績だろう。去年の中国工場での「使用期限徒過後の鶏肉使用」その他にまつわるチキンナゲット・スキャンダルにより、一旦マクドナルド離れが起こる。それはとうぜんのことだろうが、このとき「かんがえてみれば、マクドナルドって食べるひつようがないんじゃないか」という「恣意的な気づき」がおおくの慢性的な利用者に起こったのではないだろうか。彼らがマクドナルドへもどってこない。
 
環境化され自明化しているとおもわれたものに、とつぜん冷静な判断がまつわりだす。幻想ゲームの終了とともに、唐突な対象否定が完了してしまう。復興をめざし喘いでいる現在のマクドナルドが闘っている相手は、じっさいはこんな魔物ではないのか。
 
一か月ほどまえ、ファストファッションの大手、ユニクロが「とつぜん」「理由もなしに」大幅な前年比割れを記録しはじめた。これも競合ファストファッション産業の影響というより、利用者の残酷な「恣意的な気づき」が原因なのではないだろうか。90年代末期、あれだけ環境化していた小室ミュージックが急速に売り上げを落としていった不思議な推移をふとおもいだす。
 
あるときとつぜん「否定の音」が耳にひびきはじめる、といえば太宰の「トカトントン」にもつうじるが、関連してとりわけ最も暗いラヴソングをおもいだしてしまう。リリアーナ・カヴァーニの頽廃的なメロドラマ『愛の嵐』で、上半身裸、乳暈のうつくしくぼけたサスペンダーズボン、ナチス軍帽すがたのユダヤ娘シャーロット・ランプリングが(美貌を見込まれて性的に調教されている)、ヨカナーンの生首をもとめるサロメを官能的に踊る。ナチス将校が沸き、そのエロスにひそかに生唾をのみこむ。
 
ながれていたのは半音移行を駆使した、マレーネ・ディートリッヒ歌唱のゆるやかで暗い短調リュート(JAPANの四枚目にこれにインスパイアされた曲があった)。オリジナル音源を学生時代からずっと入手しようとしているが果たしていない。危険な音源だから怯んでいるのかもしれない。
 
記憶ではルフランがこんな感じだった。「いまがどんなによくても――どんなに幸せでも――どんなに恋に落ちていても――いつかきっと厭になる――いつかきっと厭になる」。予言の歌なのはたしかだが、予言されているのが、「恣意的な気づき」だという点に、通常の未来展望の歌との径庭懸隔がある。ただの意気阻喪への誘惑だけではないのだ。
 
「気づいてみれば要らないじゃないか」――そのおもいから最近、ぼくの食卓で排撃をうけているのがマヨネーズだ。べつにマヨネーズ断ちといった願掛けの動機もないのだが、あるときふとマヨネーズの人工性、自足性に納得がゆかなくなった。
 
たとえばいま食べていた自家製の冷製スパゲッティサラダに以前ならぼくは、オリジナルドレッシングとともにマヨネーズもくわえていた。けれども少量でもマヨネーズ味に充足してしまうその存在のつよさがどうも厭わしい。こういうことに「恣意的に気づいた」のだった。
 
それでこのごろは、冷製スパゲッティサラダは以下の材料の自家製ドレッシングで和えることがおおい。胡麻油+サラダ油、米酢、鷹の爪輪切り、コリアンダー、塩、胡椒(用意してあれば、ナンプラーも入れるところ――ひとによっては牡蠣油も足すかもしれない)。
 
このエスニック味のほうがマヨネーズ味よりもサラダ具材を生き生きと呼吸させる――そう気づいてしまった。なにかに執着しなくなったとき、じっさいはこのように運命的な選択が起こっているのではないか。気づかないだけだ。
 
むろん「気づかないこと」は、無媒介にその隣の「恣意的な気づき」へさえ移行する。かんがえてみれば、こわいことだ。おおくはそれで恋をうしなう。
 
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