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2021年04月19日10:22

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アレゴリー関係をこえて

 
院授業の準備のために成瀬巳喜男の『めし』をひさしぶりに観なおしていたら、濱口竜介『寝ても覚めても』と共通するディテールが数多くあるのに改めて驚いた。ぼくは機関誌「層」で、夫婦がおなじものを見る2ショットで初めてふたつの顔が横ならびになる点が(『めし』の場合は川崎市矢向の商店街を練り歩く神輿に対して、『寝ても覚めても』の場合は大阪の家のベランダから見える川に対して)、共通している旨、指摘をおこなったが、それだけではなかった。
 
・東京、大阪の二都物語の構造
・縦構図の使用(『めし』の場合は家内部のロングまで捉えるとき2人物前後配置のほぼ鉄則となる/『寝ても覚めても』では「層」拙稿にしるしたように、主題系的な大技として縦構図が敢然と選択される)
・大阪中之島の水路(川)を橋からの縦構図で川の奥行に正対して捉えるショットがともにある
・妻の寝顔が捉えられる(『めし』は妻の実家の居間で/『寝ても覚めても』は夜のクルマの助手席で)
・ヒロインが名を呼んで飼い猫を探すくだりも共有される
・おなじものを体験して正反対になる夫婦の反応が描かれる(矢向の店でビールのコップを煽ったとき『めし』の原節子は「にがい」、上原謙は「うまい」と言う/台風で増水した家の向こうの川をみて、『寝ても覚めても』の東出昌大は「きったない川やで」と言い、唐田えりかは「でも、きれい」と言う)
 
「含羞」を自己および俳優の性格とした成瀬。「含羞」を俳優生成論の基軸とした濱口。男女仲の修復(不能)という大枠もおなじだが、しかし両者が共通する細部を組み替えたアレゴリー関係を貫徹するわけではない。とうぜん後を追った『寝ても覚めても』のほうが共通土壌から軸足をずらすのだ。とりわけ、妻の失敗体験が、夫婦の以後の時間に反復的に確認されるにがい礎石となるだろうことが濱口作品のラストでは暗示される。東日本大震災への想起と同様の未来時制での想起。この点を夫婦危機をユーモラスに描いた『めし』は徹底させなかった。
 
それにしても、柴崎友香の原作に成瀬を導入してアマルガムを作った濱口の作家的野心が大胆だった
 
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