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2018年02月19日20:42

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吉田恵輔・犬猿

 
【吉田恵輔監督・脚本『犬猿』】
 
初期作品の評判は聞き及んでいるが、吉田恵輔監督作はまだ『銀の匙』『ヒメアノ〜ル』しか観ていない。それでもその二作で話法のあざやかさに魅了されてきた。ビルドゥングスロマンにおける進展80%と暗転20%を快調にえがいた『銀の匙』の幸福な出来にも驚愕したが、古谷実の同題原作コミックを大胆に「つまみ」、原作にないラストへの展開で動悸させ、それをも作品の「暴力」表象とした『ヒメアノ〜ル』には本当に腰を抜かした。いずれも語りが黄金期ハリウッド映画のように速い。
 
とりわけすばらしいのはシーンの飛躍のしかただろう。断絶的なのに親和的なのだ。もっともそれは映画の秘蹟のひとつとしてかぞえられることだ。映画における最小単位の空間飛躍はたぶん切り返しだが、それは飛躍がちかさと手を結ぶ「空間の馴致」としてまず現れる。ならば並行モンタージュはどうか。そこではひとつのシーン単位と、それとは場所をたがえる別のシーン単位が、「時間的に」隣りあいつつ織りあわされてゆく。結果、えがかれている隔絶は、同時に脱−隔絶になるという映画的ねじれを起こすのだ。
 
現在上映中の吉田恵輔監督『犬猿』では基本的に、新井浩文—窪田正孝の兄弟描写(その舞台は窪田の住むアパートの一室が中心となる)、それとニッチェ江上敬子と筧美和子の姉妹描写(その舞台は納期と価格ダンピングにあえぐ下請けの印刷町工場とその隣の自宅が中心となる)とが「並行」関係となるが、この「並行」は過激に「同調」して並行分離を解消しつつ、同時に「並行性」をこれでもかと際立たせる。並行性の二様を点滅させるのだ。この出し入れに説話の革新性のすべてがあるのだから、映画『犬猿』の時間表象はずいぶん数学的ともいえるだろう。
 
説話効率の高さが、人物描写における性格伝達効率の高さと表裏なのは無論だ。この両輪がなければ軸がゆれ物語は安定的に驀進しない。自転車の走行を想像すればわかることだ。たとえば新井演ずる卓司。冒頭、弟・和成が町のチンピラにボディをこすったと駐車場であらぬイチャモンをつけられる。むろん恐喝目的だ。ところがその兄が卓司だと気づき、チンピラたちはビビり、なかったことにしてくれと懇願する。金庫強奪未遂の罪で服役していた兄は刑期を終え出所、とりあえずは弟・和成のアパートに数日間いさせてくれと待ち構えている。そのあと弟を引き連れキャバレーで年増相手に狼藉を働き、店員の注意を機に態度を豹変、金庫強奪計画を警察に密告したのはおまえ(キャバレーの支配人)だろうと凄み、用心棒格の屈強男ともどもボコボコにする。すべては新井ふんする卓司の凶悪ぶりの「格付け」だ。その後も新井は弟の留守にデリヘリ嬢を呼び出すなど狼藉のし放題だった。それを首筋にタトゥーを露見させながら、特有の「鷹の眼」=四白眼で新井が殺気たっぷりに演ずるのだから、新井の強烈なキャラは一挙に定着される。
 
むろん吉田演出はひと色のみを塗らずに、人物を立体的に結像させる点に特長がある。まずは疎外。新井は脱法ドラッグと知らずに「ダイエット薬品」を扱い、急激に羽振りが良くなる。住む家もクルマも一級品を手に入れる。やがて腰のわるい実家の父親に高価な電動マッサージ椅子を贈与するが、その父親が弟・和成の買ってくれた角度調整のこまかい安価な座椅子のほうに馴染み、やんわりとマッサージ椅子を拒絶するのに淋しさを垣間みせる。それはエンジンのかかりにくいボロ自動車に甘んじている弟に、中古ながらシャンとしたクルマをプレゼントしようとしたときもおなじだ。長年の信頼喪失は、カネの力では恢復できないのだ。その新井がラブホにいるシーンではやはりヘンな年増が連れであることから、彼の性になんらかの趣向偏差のあることが窺われるし、やがて江上敬子との数少ないシーンで、じつは彼が「やさしい」(それも通常の「やさしさ」ではない)と伝わってきて、役得をこっそりと複雑に結実させる。
 
兄弟葛藤という作品の最大主題にかんしては、終盤、新井が首筋を斬られ傷を手でおさえやっと失血死をまぬかれる危機に陥るが、帰宅した弟はそれを一旦放置、未必の故意で兄を死にいたらせようとする。だが悔悛、ケータイで救急車を呼び、救急車内で号泣して兄へ己の非を詫びる。このとき新井はふたりが幼年だった往時の記憶(それは子役をつかったフラッシュバックとして画柄でも説明される)を主体的に導きながら、(どこへでもついてくる)「おまえは、子どものころ、おれのことが好きだったんだ」と窪田に確認をせまる。身体と記憶の同体性。それは嫌悪にさえ先験される点でもはや宿命にちかい。同様のことは印刷屋の姉妹、江上扮する由利亜、筧扮する真子にも起こる。
 
ニッチェの江上敬子が往年の藤山直美をおもわせ、しかも爆笑をみちびく。丸顔、肥満体、中年の坂に差し掛かろうとする、前髪を後ろにひっつめた眼鏡姿の彼女は、病身の父親に代わり自らが差配する町の印刷工場にやってくる印刷会社の営業担当にしてイケメン(それでもどこかが冴えない)和成に懸想している。思いは「ひそかに」という範疇を超え、周囲全般に漏れ出ているのだが、そうした純情は彼女の男性経験のなさを問わず語りしている。窪田のもちだす無慈悲なダンピング依頼(強制)にも従業員の残業等で応じてみせる彼女にはむろん大盤振る舞いを梃子に得恋をのぞむ底意があるのだが、旨い焼肉レストランの話をしても「焼肉は好きだが」「一緒の会食は遠慮したい」窪田の巧みな応答により、外されまくる。この応酬のリズムにすでに笑いが起こる(あるいは窪田のプレゼントした赤い菊をあしらった手ぬぐいから赤い菊の花ことばをネットで調べた江上はその好結果に有頂天となり、「踊る」——このときは不恰好さが可愛いサイトギャグが披露される)。
 
クライアントの理不尽により色校のし直しをしいることになって、ついに窪田は富士急ハイランドでの江上との「デート」に同意する。江上の「垢抜けなさすぎる」野暮ったいプリティ勝負服は、おばさんの攪乱としかみえないから、それ自体が笑え、デート中のでこぼこしたディスコミュニケーションもまた笑えるのだが、じつは窪田はその後江上のルックスの良い妹・筧と相愛になり、彼女とも富士急ハイランドがデート場所となる。若い恋人どうしとして釣り合いのとれたふたりのあかるい振る舞い。こうして一旦の窪田—江上のデートはのちに偏差をさらにしるすことになり、一粒の笑いが「倍」美味しい笑いとなる効率化まで招来されるのだった。
 
むろん吉田恵輔のオリジナル脚本は、松竹喜劇的「純情」に江上敬子を塗り込めない。窪田と筧の一見の相愛成立のあと江上は嫉妬によりストーカーじみてくるのだが、それ以前に彼女がどのように仕事ができ、聡明かが描出される。パソコンで経理をおこないつつ従業員全体を差配し、印刷発注の対外交渉も一手にするほか、病父のまめまめしい世話、さらには親戚がきたときの熱燗のつけかた、それに料理自慢で、弁当はおろか、あまりものでチャーハンをつくればライスをあざやかにフライパン上で回すこともできる。彼女が「下手」なのはおのれのルックス、それに恋愛でしかない。このふくみがあって、彼女が絶望のため終盤みずからにくだした自裁決意が立体化されるといっていい。
 
立体化といえば胸のおおきい「かわいこちゃん」役として抽象的に点景化される惧れのあった筧美和子の妹・真子が奥行きをともなって造形されているのにも感心した。彼女は芸能プロダクションの末席に在籍し、女優を目指しているものの、頭の悪さも手伝ってか、グラビア仕事に甘んじている。仲介者に枕営業はするわ(その舞台となったラブホで前述の新井浩文と鉢合わせる)、やがては「着エロ」ビデオモデルとなる危うい仕事が発覚するわで、実際は薹の立ち始めたモデル仕事も下降傾斜するばかりだ。仕事があまり入らず実家の印刷工場で給料をもらって手伝いもするが、パソコン経理をはじめ仕事はできないし家事も姉のようにできない。
 
海外ロケを想定、「聞くだけ」のスピードラーニングで英会話習熟に励んでいるが、外国人からの電話にたじたじ、高校大学で英語を学んだだけの姉に流暢な挨拶英会話を好対照で披露されることになる。ルックスが半端に良いだけ、あとは「空っぽ」の女の寂寥と自信喪失、しかもルックスが芳しくない姉に理不尽な嫉妬を抱いているという、むずかしい役柄を筧はきちんと「生きている」。彼女は昔からむなしく姉のもちものをほしがった。つまり姉の懸想する窪田を、かわいこちゃんぶりで籠絡したのにも、出し抜きや懲罰の意図があったとクライマックスで、彼女は泣きながら告白する。
 
人物造形を語りすぎてしまった(窪田正孝の役柄の複雑さについてはぜひ劇場で実地検分を)。あらためて確認すると、物語の進展のうえでは新井・窪田の兄弟、それと江上・筧の姉妹が並行配置されながら、江上のデート願望と、そのさや当てとしての筧との相愛成立をつうじて、シーンの並行性を窪田が刺繍してゆく恰好となる。並行性のつよい同調は喜劇的に起こる。肉弾戦といってよい兄弟/姉妹の喧嘩では「兄」「姉」「弟」「妹」がスローモーションでそれぞれ交差的に織りあわされる。その後、新井への救急車要請、手首を切った江上への筧の救急車要請により、弟/妹の救急車内での慚愧の大泣き、幼年時の兄弟姉妹の子役をつかったフラッシュバックも交差し、並行性が並行性のまま親和的に爆発する(これがやはり交差爆発する、しかも打ってかわって皮肉なラストシーンへの伏線となる)。ややもすれば図式的な展開のはずなのに、そうかんじさせないのは、主要人物、新井・窪田・江上・筧の「立体化」「人間化」「相似化」が並行モンタージュの対置性を緩衝させ、説話速度が衝突そのものを溶融させるためだ。みごとというしかない。
 
むろんそこにサスペンスが生ずる。つまり新井が対置される並行モンタージュの員数である筧、江上と独自に出会う交差配列を観客が自然に待ち構えざるをえないのだった。じつはそこに本作の聡明さが結晶する。四人が一堂に会するシーンは無媒介に前置され、それが基礎となった。焼肉レストランデートに窪田を見え見えで誘う姉・江上に惻隠の情をしめしたのか妹も自分も同行するというヘンな前提をちらつかせ、結局、窪田は姉妹を前に焼肉レストランにいる。江上は無粋にも仕事の話を不器用に窪田に語りつづけ、筧はタレント気取りでステーキをインスタグラムのためケータイに収めている。そこにたまたまアパートのドア鍵を隠し場所に忘れられた新井が、店の前での手渡しという事前約束を破ってじかに乱入、三人の迷惑もかえりみず同席を買って出て、みずからの乱暴さで場を独占しだす。ところがそれは期待値のない全員集合にすぎない。その後に前言のように枕営業をする筧と、ラブホで新井は鉢合わせとなる。これも唐突さによって出会いの期待値が事前流産する。つまり眼目は、「新井と江上が」「それぞれだけで」「どう出会うかに」集中してくる。そのシーン(ふたつ用意される)こそが、じつは本作の白眉を形成するのだ。
 
この部分をネタバレ防止として記述を控えよう。ヒントだけ単語でしるす。「居残り」「チャーハン」「セクハラ」「提案」「ベビーラーメン」「試食」「同意」。それと「病院」「目覚め」「謝罪」。このふたつのシーンはとりわけ、交情の単位と色彩付与がこまかい。それもあって(しかも新井のヘンな性的嗜好もえがかれていたのだから)、この上映時間103分で驀進する映画の終末のあとには、新井と江上の相愛成立をだれもが幻視してしまうのではないか。不在性を「ふくみ=潜勢」としてこうして抱えもつ本作は、その意味でも聡明なのだった。それで予感する。撮影中に吉田は無駄なショットを撮っていないだろうと。それはハワード・ホークスの形式であり、成瀬巳喜男の形式だ。ここまでを引き寄せて、映画ファンは吉田恵輔監督の虜となるのだ。
 
——2月19日、ユナイテッドシネマ札幌にて鑑賞。
 
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