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2016年09月06日12:25

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淵に立つ・余談

 
【『淵に立つ』余談】
 
女房の話では、黒沢清監督が『淵に立つ』(10月8日公開)の深田晃司監督にたいし、作品前半できえる主演の浅野忠信が、作品後半をも支配していると対談で指摘したという(この点はかつてぼくも書いた)。たしかに『淵に立つ』の後半では(逆説的な意味で)聖者然とした浅野忠信が失踪を原因に画面からほぼ存在しなくなるが、後半で浅野がいなくなるのは、自死により作中後半から表面上消えた黒沢清監督の『アカルイミライ』とおなじ。だから黒沢さんは深田さんに、『アカルイミライ』からの継承を示唆したのかもしれない。
 
問題は「使徒」のあつかいだろう。『アカルイミライ』ではオダギリジョーが、浅野を継承・伝播する使徒となって後半、中心化する。いわば使徒ヨハネだ。クラゲはそうして増殖し、彼方へ消えた。ところが、『淵に立つ』では太賀がたぶん予感的な使徒の座に入りながら、しかもそのことが分明でない。たぶん『淵に立つ』の構造的な卓越性はそこにある。「聖画」が不可能性に浸食されているのだ。太賀がふと口にする「いいすよ、殺されても」がどのような帰趨を迎えるのか。そのこと自体に「聖者の物語」がしるされていたとおもう。同時に真広佳奈も不可能な聖者だった。
 
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