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2016年04月17日09:21

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信じられん。どうしよう

 
【信じられん。どうしよう】
 
映像の強度にたいして弱いほうなので、TVの地震映像に失語をしいられてしまった。土曜の未明なども枕もとのケータイでヤフーニュースが音を発するので、即座にTVをつけてしまう。しばらくみていると大地震が熊本で「起こりつづけている」。この災厄はもう終わらないのではないか――そのようにさえ畏れ、起こっていることに比較できないむごさをかんじた。からだのゆれ、その結果の気持ち悪い酩酊が、地震をかんじていない自分にも生じているように錯覚した。
 
わすられないことばがある。NHKニュースでいくどか反復的に南阿蘇の主婦がとらえられた映像のなかにそれはあった。阿蘇神社の楼門がくずれてつぶれ、地元の主婦がそれを視野に語っていた――「信じられん。どうしよう」。このことばに、本質をおもった。
 
おさないころからみてきたランドマーク、聖なるもの。それが無惨にも「いま」崩落している。もともとの世界の布置、その予感実感は、そのひとにとって、安定的にその神社の楼門をも組み込んでいたはずだ。これが、世界が世界であるための前提のひとつだったはずで、日々の予想が日々の確認と一致することのなかから、そのひとの生は一日一日再開されていたのではなかったか。これがくずれた。崩れたのは建造物のみではなく、自分をふくめた世界像への確信だった。だから「信じられん。どうしよう」ということばが出た。これはものすごく悲痛なことばだろう。
 
あったものが「いま」ない――喪失の原理とはそういうものだが、それは心理のみならず、自身の視覚、あるいは皮膚感覚をつうじてもあきらかに現象されてしまう。このとき視覚や皮膚感覚そのものが減少し、自己もまた減少し、自分と世界との通路につねならぬ無秩序、もっというと気持ちのわるい狼藉が出来するのではないだろうか。異物を呑みこむということは口腔のみならず、眼や皮膚にも起こり、感覚上からひとは修復不能におちいる。消化不良、吸収不能。この修復不能性がみずからのからだぜんたいをいわば「ごみ」にする。カメラをむけられた女性は、そのようにしてたちすくんでいた。
 
この「ごみ」「廃墟」「機能不全」「無秩序=臓器連関喪失」となったからだを救抜するのは、とても「ゆっくりしたもの」だとおもう。ゆっくりしていても、それは「喪の仕事」に先験する。これこそが共苦=コンパッションではないか。たとえ相手が神社の楼門であったとしても、その無惨な変貌を「ともに苦しむ」とき、楼門の現状を反射して陥っていたからだの廃墟状態が徐々にやわらかくなってゆく。くるしみといえども、それが情動だから、瓦礫となった物質性に「血がかよう」ということなのかもしれない。
 
共苦は本然的なことだとおもう。とりわけ神社の楼門に慣れしたしんでいたその主婦にとっては。ところが共苦のつよさが距離に反比例する熾烈な現実法則もある。それを是正するのが想像力で、そうかんがえると、共苦の契機をなす災厄映像の強度も、それなりの意義があることになる。東日本大震災の津波映像では、津波は共苦の情動、そのながれそのもののようにみえた。今回の熊本の被災は、夜から未明が第一報というパターンをくりかえしたから、まずは暗闇がみえた。むろん暗闇もまた、想像力の対象となりうるだろう。
 
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